フィレンツェのシンボル、大聖堂のクーポラ。
フィレンツェでは、「ブルネレスキのクーポラ」と呼ばれています。
ブルネレスキは、クーポラ(ドーム)の設計者。
今回は、ルネサンス建築の父といわれるフィリッポ・ブルネレスキをご紹介します。

ブルネレスキ(1377-1446)は21歳のときに、すでに彫金師としてギルトである絹織物業組合に登録されています。
22歳でピストイア大聖堂のサンヤコポの銀の祭壇が制作し、それが若き彫金師としてのブルネレスキの代表作です。
1401年、フィレンツェの洗礼堂のブロンズの扉のコンクールで、ロレンツォ・ギベルティに敗れましたが、それは、共同制作を打診されたので辞退したともいわれています。
この時のギベルティとブルネレスキのコンクールの作品はバルジェッロ美術館で見ることができます。
このコンクールにはフィレンツェの芸術家だけでなく、初期ルネサンスを代表するシエナの芸術家、ヤコポ・デッラ・クウェルチャ(代表作、ルッカの大聖堂にあるイラリア・デル・カッレットの棺)など7人が参加して行われました。
34人の選考委員の中には、当時のメディチ銀行頭取のジョヴァンニ・ディ・ビッチ(1360-1429)の名前もあります。
ブルネレスキがコンクールで敗れた後、課題作品をメディチ家に捧げたといわれています。
その後、ブルネレスキは建築に携わるまでの間、彫刻作品をいくつか残しています。
ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチは老コジモの父。1413年、ジョバンニが教皇庁を独占的に顧客にすることに成功したことが、メディチ家の栄光につながりました。
老コジモが一般的にメディチ家最初の偉大な人物として語られますが、私はジョバンニのほうがとんでもない天才銀行家と度量のある人物だったのではないかと思います。

ジョヴァンニは、羊毛商だった父を3歳で亡くし、親戚の銀行家、ヴィエーリの下で銀行家の道を歩みます。ジョヴァンニは25歳で結婚、妻の持参金なども合わせてヴィエーリからローマ支店の権利を買い取り、独立して事業を拡大、かたやヴィエーリの方は息子の代で倒産しているそうです。この倒産劇を目の当たりにしてジョヴァンニは息子を銀行家として厳しく仕込んだとも考えられます。
フィレンツェ共和国の政治の要職にジョヴァンニの名前が上ったのは1419年、1421年です。
このころからブルネレスキの建築家としての活躍も始まります。
1418年クーポラのコンクールによりブルネレスキ案が選ばれ、着工。
クーポラの工事は1436年完成し、クーポラの頂飾り(ランテルナ)もブルネレスキが引き続き工事を担当し、完成したのは彼の死後です。


1419年、ブルネレスキは、自分の所属する絹織物業組合がパトロンの捨て子養育院を設計、着工。
1421年、旧聖具室と教会全体に及ぶサンロレンツォ教会の大改修拡大工事(メディチ家からの依頼なので当時当主のジョヴァンニからと考えるのが妥当)。
クーポラ建設に当たって、ブルネレスキは新たに現場に応じた大型建築機械まで設計し、屋根材のテラコッタのブロックの検品、現場労働者の指導監督まで行って、現場のストに解雇で応じて新たに人を雇いなおすなど、強気で頑固な人柄を思わせるエピソードがあります。
アルノ川を下流からさかのぼって資材を運ぶ運搬船も設計し、共和国から特許権のようなものも受けていたそうです。
ルネサンスの万能の天才と謳われるレオナルド・ダ・ヴィンチの作品のほとんどが未完や絵に描いたモチに終わったのと対照的に、ブルネレスキは建築芸術作品だけでなくエンジニアとしてもいろいろ発明し、実用化させています。
若いレオナルドは、ブルネレスキが塔頂飾り完成のために残した大型機械をデッサンしたデザイン画を描き残しています。
レオナルド・ダ・ヴィンチが、ダヴィンチコードを編集して残そうとしたのは、何も残さなかったブルネレスキが反面教師になっているのかもしれません。
自分の発明したものをコピーされることを極端に嫌ったブルネレスキは、亡くなる前にすべてを処分したといわれています。
残された資料はブルネレスキ周辺の芸術家が書き残したわずかな資料です。
もし、ブルネレスキが、ダビンチコードのようなアイデア集や建築論などを書き残していたら、ダヴィンチを越えるルネサンスの万能の天才として世界で評されていたのではないかと思います。
1429年ジョヴァンニがなくなります。
建築家として有名になっていたブルネレスキの元へは、教会や公的機関からの依頼は引き続きありますが、老コジモの代になったメディチ家からの個人的な依頼はぱったり途絶えます。
老コジモの建築家として活躍するのは、老コジモより若いミケロッツォです。
裕福な家庭環境で文化芸術に親しんで独自の美意識を持っていた老コジモにとっては、プライドが高く、完璧主義で秘密主義のブルネレスキは扱いにくい老建築家だったのだろうと思います。

その後何百年も続くメディチ銀行の基礎を一代で築いたジョヴァンニは、ブルネレスキの才能を信頼して、お金は出すけれど口は出さない度量のある人だったのではないかと思います。
建築史でブルネレスキはルネサンス建築でキーパーソンですが、ミケロッツォはブルネレスキ風と言われるに留まります。
老コジモに父親同様の度量があれば、晩年都市計画にも及ぶサントスピリト教会の構想を抱いたブルネレスキによって、フィレンツェの街はもっと魅力的になっていたかもしれません。
2020.7.8

shinako

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