新年明けましておめでとうございます。
今年2021年、没後700周年に当たるイタリア文学の父、ダンテ・アリギエーリについて書かせていただきます。

ダンテ・アリギエーリは1265年の双子座の時期に、フィレンツェ共和国で生まれ、フィレンツェのサンジョバンニ洗礼堂で洗礼を受けました。
彼の幼少期の記録はあまり残っていません。すべて彼自身の手による作品が手掛かりです。
そうなってしまったのはダンテが生きた時代は教皇派と皇帝派に分かれて争う時代で、フィレンツェが教皇派勝利で一段落した後は、教皇派の間で白派と黒派の争いに置き換えられ、政争に翻弄された時代でした。
ダンテが属していたのは白派でした。
共和国の要職に就き、1331年に教皇への大使としてローマに赴いているとき、フィレンツェ共和国で政変が置き、黒派が政権を握りました。
政治ライバルの力をそぐために、新政権は旧政権の有力者だったダンテに対して罰金を科し、支払わなかった場合はフィレンツェに戻れば死刑と宣告しました。ダンテは、いわれのない罪で不当な罰金を払うことを拒否したため、フィレンツェ共和国に帰国せず、ラベンナで1321年9月13-14日の夜に亡くなります。死因はマラリアではないかと言われています。
ダンテの代表作『神曲』は、その地獄篇を鍵にストーリーが展開するフィレンツェが主な舞台となった映画、『インフェルノ』で注目を浴びました。
ダンテの神曲は執筆後すぐに高い評価を得ました。当時の大学でとりあげられ、ルネサンス時代に至るまで一貫してダンテの作品は高い評価を受けていました。
当時高等教育はラテン語で、書物における共通言語、ヨーロッパ知識人の共通言語はラテン語でした。
それをあえて俗語のイタリア語で書いたことが、文学における人文至上主義、ルネサンス的志向の表れとして私も学校で学んだ記憶があります。
ですがダンテの作品の人気はルネサンス以降かなり薄れてしまっていたそうです。
それが一気に注目を集め、イタリアを代表する文化人となったのは、イタリア統一運動とイタリア統一そして共通イタリア語教育だったそうです。
そういわれると納得なのが、美術作品に登場するダンテの肖像が制作された時期です。
ダンテと同時期に生きて親交もあったと言われるジョットの工房によって製作されたバルジェッロ美術館の礼拝堂のフレスコ画に描かれたダンテの姿から、ラファエロがバチカンに描いた署名の間のフレスコ画にもダンテの姿は見られます。
そして、バロック時代の芸術作品からダンテの姿は探せないような気がします。
ここにもあそこにもとダンテは登場し、さらにダンテの永遠の恋人ベアトリーチェの姿まで作品に現れます。
写真:サンタトリニタ橋のベアトリーチェとダンテの再会(Wikipedia)
文学が苦手な私は、実はダンテの作品を読んでいないので、代表作の神曲を今年読むことをひとつの課題にしようと思います。
2020.1.6

shinako

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