フィレンツェのシンボルといえば、ミケランジェロの《ダヴィデ像》、そして《ドゥオモ(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)》でしょう。
サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母マリア聖堂)の存在感は圧倒的です。E・M・フォースターの小説を原作とする映画『眺めのいい部屋』でも、ホテルの窓からアルノ川の流れを挟んでドゥオモが見え、また、やや郊外の場面でもドゥオモの遠景が見え、それがこの映画の魅力の一端になっています。
フィレンツェの街を歩いていると、いろいろな場所からドゥオモの姿が見え、観光して歩く立場からしますと、目印にもなってありがたい存在でもあります。
フィレンツェのシニョーリア(行政府)が、建築家アルノルフォ・ディ・カンビオ(1245頃〜1302頃)に委嘱して、古くなったサンタ・レパラータ教会Santa Reparata の跡地に、新たな大聖堂の建設を始めたのが1294年といいますから、日本では鎌倉時代後期。中国では元の時代で、日本への侵攻を命じたクビライ(1215〜1294)の没年にあたります。
《大聖堂の規模の変遷》
CC BY-SA 3.0, Link
アルノルフォ・ディ・カンビオArnolfo di Cambioのプロジェクトは、それ以前のサンタ・レパラータ教会の規模と比べて、格段に大きくなり、フランチェスコ・タレンティTalentiの計画でさらに大きくなっていました。(pianta attuale は「現在の図面」の意)
円蓋(クーポラ)とその下の八角形のドラム部分
ドゥオモの写真を見ていただければすぐわかると思いますが、ドゥオモは上の方の丸屋根=円蓋(クーポラ)部分と、その下の八角形のドラム部分から成っています。カンビオが建築を始めたのは、当然ですがドラム部分で、地上からおよそ54メートルの高さまでの建造物です。カンビオ没後は、いろいろな人が指揮を取り、この部分の工事が終わるのが、なんとおよそ100年後の15世紀初めでした。
その間に、フィレンツェはくり返しペストに襲われます。1348年にも大流行がありました。それを背景に、ボッカッチョ『デカメロン』が書かれたのは有名な話です。むろん、フィレンツェだけが襲われたわけではなく、ヨーロッパに広がっていきますが、この点については、以前にこのブログに、「疫病と絵画」という題で少し書きました。
それはともかくとして、ドラム部分とクーポラ部分について、建築の工法という観点からしますと、ドラム部分は、同じ八角形を積み上げていくだけですから、むろん大変な工事には違いないし、時間はかかるとしても、要するに積み上げです。しかし、円蓋(クーポラ)部分は工法が全然違います。
完全な丸屋根(正円形)なら、そこに使用する石材にかかる「上からの圧力」と「横からの張力」のバランスによって、つまり力学的な構造によって、屋根の形の維持が可能になります。しかし、フィレンツェのドゥオモの場合、クーポラ部分は八角形にするという「基本計画」が1367年に策定されていました。とはいえ、八角形ということは決定されていたものの、どのようにすればそれが建設可能かは不明のままだったのです。ちなみに、円蓋部分の直径は36〜41メートルです。
八角形のドーム(クーポラ)をどのようにして建設するのか。
円蓋が工事の途中で落下したり、さらには崩壊したりすることはないのか。
そもそも円蓋建築のために用いる素材(石材など)をどのようにして調達するのか。
調達したとしても、それらをどのようにして50メートル以上もあるところまで持ち上げるのか。
クーポラに関するコンクール
このドゥオモ建設は、フィレンツェで最大にして最富裕な同業組合である羊毛組合に委ねられていました。毛織物業は一大輸出産業となってフィレンツェ・ルネサンスを支えたとも言えるものです。当時のフィレンツェは、ヨーロッパでも指折りの繁栄した町で、ロンドンにも匹敵する人口を擁していたと言いますが、その組合が、クーポラに関する「コンクール」の布告(1418年8月19日)を出しました。ロス・キング『天才建築家 ブルネレスキ』(田辺希久子訳、東京書籍、2002年。以下、キング『ブルネレスキ』と略称)に、布告が掲載されていますので、概要を紹介します。
「大聖堂造営局が建設中の大聖堂に、丸屋根(クーポラ)ないし丸天井(ヴォールト)の建造について、その模型ないし設計図を捜索しようと思う者は、9月末までに提出のこと。採用された者には、金200フィオリーノを与える。」
200フィオリーノというのは、「熟練工の2年分の収入を上回る大金」とロス・キングは書いています。
つまり、クーポラに関する「コンクール」が行なわれたのは、建築開始からすでに120年あまりの年月が流れ、あとはクーポラの建築が残っていた時点だったということになります。
こういう記録がきちんと保存されているというのはすごいと思いますが、それはさておき、このコンクールに応募した建築家は、模型を作成して応募することになっていて、十数件の応募がありました。その結果、選ばれたのが、フィリッポ・ブルネレスキ(1377〜1446)の案だったのです。(続く)
《大聖堂クーポラの概観及び立面図》
Public Domain, Link

藤尾 遼

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