ブルネレスキとギベルティ
ブルネレスキの名前がフィレンツェ市民にとどろいたのは、このときが最初ではありませんでした。
《サン・ジョバンニ洗礼堂》
サン・ジョバンニ洗礼堂は、ドゥオモのすぐ西隣にあります。西隣と言われても方角がわからないかもしれませんが、ドゥオモの祭壇は東向きになっています。東向きというのは、エルサレムの方(東方)に向かっているというわけです。英語のorientation という単語は、もともとは祭壇などを東に向けることという意味に由来するものですが、そこからいろいろな意味が派生しました。というわけで、ドゥオモの正面に向かって立てば、その背後にサン・ジョバンニ洗礼堂があるという位置関係になります。
そのサン・ジョバンニ礼拝堂のブロンズ門扉のひとつが、制作者の公募によって選ばれた人物によって制作されることになったのです。この公募が行なわれたのが1401年。ドゥオモの円蓋のコンクールがあった1418年より前のことです。サン・ジョバンニ礼拝堂の扉の公募で、最後まで選考に残ったのが、ロレンツォ・ギベルティ(1381頃〜1455)とブルネレスキだった。こうして、ブルネレスキの名前は、関係者の間では知られるようになっていたわけです。
最終的にはギベルティがこの仕事を担うことになりましたが、その後、ブルネレスキはフィレンツェを離れ、ブルネレスキの工房にいたドナテッロ(1386〜1466)とともにローマに向かいます。
ドナテッロといえば、すぐに連想するのは、ダヴィデ像です。
ドナテッロ《ダヴィデ像》
ローマでのブルネルスキ
いずれにせよ、ブルネレスキはドナテッロを伴ってローマに行きました。ブルネレスキは建築を研究するために、ドナテッロは彫刻を研究するためです。
ジョルジョ・バザーリ(1511〜74)の『ルネサンス彫刻家建築家列伝』(白水社、1989年)には、ギベルティのこともブルネレスキのことも取り上げられています。バザーリは、ドゥオモのクーポラのコンクールがあった年から100年ほど後の人物ですから、彼の著作は同時代的な記録ではありませんが、いろいろな記録や伝承に基づいて書かれているのでしょう。ブルネレスキのところがことに面白い。
ブルネレスキとドナテッロは、「ローマであろうと郊外の田舎であろうとあらゆる場所に出かけ、そこに見出したあらゆる建物を調査し測量した。フィリッポ〔ブルネレスキ〕は家族の面倒から解放されていたので、研究に没頭して、寝食も忘れるほどであった。」彼の関心事はもっぱら古代ローマ時代の建築でした。
ブルネレスキは「心に二つの大きな抱負をもっていた。一つは優れた建築を蘇らせることで、〔中略〕もう一つは、もし可能なら、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に円蓋を架構する方法を見出すことであった。〔中略〕ローマでは、ロトンダ(パンテオン)に関するあらゆる難問についてたえず思案し、いかにすれば円蓋の架構は可能なのかを考えた。彼は古代のあらゆる円蓋を観察し、素描しただけでなく、それについて倦まず弛まず研究した。」
やがてドナテッロはローマから離れましたが、ブルネレスキはひとりローマに残り、「以前よりも刻苦勉励して古代建築の廃墟を調査し続けた」として、バザーリは、詳細に調査のことを書いていますが、これくらいにとどめておきます。
いずれにせよ、ブルネレスキは1416年か17年頃、フィレンツェに戻りました。ドゥオモのコンクールの少し前です。
《パンテオン》の内部
ブルネレスキと遠近法
少し話が変わりますが、ブルネレスキといえば遠近法を思い出す人もいるでしょう。
ゴンブリッジ『美術の物語』には、次のように書かれています。
「ブルネッレスキはルネサンス建築の創始者だっただけでなく、絵画の分野でも画期的な発見をした人だと言えるだろう。以後、何世紀にもわたって、この発見が絵画の根本原理となった。遠近法の発見である。」
そして、ゴンブリッジは、この遠近法を用いて描かれた最初の絵画の一つだとして、マザッチョ(1401〜28)の《聖三位一体》を例にあげています。
マザッチョ《聖三位一体》
サンタ・マリア・ノヴェッラ教会(フィレンツェ)、1428年頃、667cm×317cm
レオナルド・ダ・ヴィンチ《最後の晩餐》(1495〜98)の構図に、この遠近法が駆使されていることは一目瞭然ですが、レオナルドが14歳で弟子入りしたのがヴェロッキオ工房で、そのヴェロッキオの師だろうとされているのがドナテッロ。ドナテッロはブルネレスキとともにローマに出かけているという関係です。
ブルネレスキのローマ建築調査
遠近法の発見がブルネレスキによってなされたとして、では、なぜ画家によってではなく、建築家によってその発見がなされたのでしょうか。
ロス・キングは、「透視図法を使った古代の絵画」に出会ったからかもしれないとしつつも、「平面に視線を導入する画法は、ブルネレスキがローマの遺跡を調査した際に使った測量技術にヒントを得た可能性があるのだ。遠近法と測量技術は、三次元の物体を紙やキャンバスに写し取るため、その相対的位置を確定するという点がどちらにも共通している」(キング『ブルネレスキ』58ページ)としています。
これはとても興味深い指摘だというべきでしょう。
歴史に「もしも・・・」ということを言うのは無益だとされていて、その通りだろうと思いますが、しかし、もしもブルネレスキがフィレンツェのサン・ジョバンニ礼拝堂のブロンズ門扉の制作コンクールで、ギベルティの応募作よりも上だとされ、ブルネレスキがこの門扉制作に打ち込むことになったら、ブルネレスキの古代ローマ建築調査は行なわれたでしょうか。行なわれたとしても、あのように時間をかけた調査ができたでしょうか。また、「遠近法」の着想を得ていたでしょうか。
そもそも、古代ローマ建築の十分な調査なしに、フィレンツェのドゥオモの円蓋建設を、あのように見事に成しとげることが可能だったでしょうか。
いずれも想像に過ぎませんが、興味深いところではあります。(続く)

藤尾 遼

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