イタリアでは、3月28日から夏時間を迎え、日本との時差は7時間となりました。そして、もうすぐ4月4日の復活祭を迎えます。
想定内のこととはいえ、復活祭を前にフィレンツェも、3月29日からコロナ感染のレッドゾーンとなりました。
レッドゾーンとなる直前の日曜日の旧市街地は、観光客もいるのではないかと思うほどの賑わいを見せていました。

私はこの週末、第2次世界大戦期のフィレンツェをテーマにしたウォーキングツアーに参加しました。
1943年7月、連合軍はシチリア島に上陸し、次いでローマが空爆されました。このツアーで話題になったのは、その戦争末期から1944年8月11日のフィレンツェ解放までにあたります。
ツアーで歩いたのは、フィレンツェの旧市街地内の南端のタッソ広場からレオーネ通り、カルミネ教会前広場、サントスピリト広場、ピッティ宮殿、ヴェッキオ橋、市庁舎、大聖堂のルートでした。
戦争末期のイタリアの状況市民生活がどれだけ制限され困窮していたか(日本同様食糧統制が敷かれ、その量が生命維持に足りない量だったことなど)説明を受けました。続いて、1944年7月18日に起きたドイツ軍による市民への無差別銃撃事件の解説がありました。
その後、かくまわれていた修道院から引き出されたユダヤ人を含む、フィレンツェ在住ユダヤ人300人以上が列車でアウシュヴィッツに送られ、帰還できたのはたった15人だったという悲しいエピソードを知りました。
8月8日、サントスピリト広場に置かれていた連合軍の拠点が追撃砲弾による攻撃を受け、解放目前でフィレンツェのパルチザンリーダーのアリージ・バルドゥッチや連合軍将校が亡くなったことも教えられました。


8月4日のヴェッキオ橋周辺建物の爆破で、家を失った多くの住民たちの仮の住まいとして、ピッティ宮殿やダバンザーティ宮殿など、国立の美術館が使用され、貴重な美術品とともにピッティ宮殿では5000人の市民が生活していたそうです。この間、作品の紛失盗難が一切なかったことは、フィレンツェ市民の輝かしいエピソードです。びっくりしたのが、仮の墓地として、ボーボリ庭園の一角など国有の市内の庭園が使われたことです。市街戦が続く中、家の外に出るのも危険な状況だったので、より危険な郊外にある墓地に亡くなった人を埋葬しに行くことができなかったそうです。
棺桶を作ることもままならない状況だったので、布にくるんだ遺体を庭園に運んでいたといいます。遺体は終戦後、きちんと墓地に埋葬されたとのことです。
8月4日、フィレンツェでは、アルノ川にかかる橋は、ヴェッキオ橋を除いてフィレンツェを占領していたドイツ軍によって、すべて破壊されたのですが、ヴェッキオ橋がなぜ残されたかははっきりしたことがわかっておらず、さまざまな仮説があるそうです。
その中でこの日に紹介された説は、水深も浅く川幅も狭く、橋の上に工房やヴァザーリの回廊が張り付いて体積の大きなヴェッキオ橋を爆破しても、瓦礫が残り、容易に軍用車が川を渡れるようになることが想定できたためではないかというものです。歴史遺産として重視されていたからとする説もある中、この説は、一理あるのではないかと思いました。
残されたヴェッキオ橋ですが、その上部にある回廊の一部は、ヴェッキオ橋周辺家屋の爆破とともに破壊されてしまっており、後に修復されたそうです。回廊のほとんどは無事だったため、回廊を使って、連合軍が電話線をはしらせ、通信網を確保したそうです。

フィレンツェ解放戦時の犠牲者の名前が刻まれたプレートが、ヴェッキオ宮殿の奥の中庭に続く廊下に設置されています。

旧市街地が解放されたのは8月11日。このときは、ヴェッキオ宮殿の鐘、そして普段は鳴らされないバルジェッロ宮殿の鐘もつづいて鳴らされたそうです。
当時フィレンツェのエリア・ダッラ・コスタ大司教は、公然と反ファシズムを表明し、1938年にムッソリーニがヒットラーをフィレンツェに招いた際、大聖堂を閉ざして大司教館の窓を黒いカーテンで覆ったそうです。戦時中もユダヤ人を救うために尽力し、フィレンツェの名誉市民となっています。
旧市街地周辺エリアではその後も戦闘が続き、完全に解放されたのは9月1日だったそうです。
戦後75年が過ぎ、成人で戦争を体験した人が非常に少なくなっている現在、街に残された戦争の記録をたどり、平和の尊さを感じるこのようなアクティヴィティーはとても意義あることに思えました。
2021.3.31
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