今週は、シエナのコース(観光ガイド対象の授業の一環)で訪れたピエンツァのすぐ近くの素敵な教会を紹介いたします。
世界文化遺産の街ピエンツァのダンテ広場からだらだらと10分程坂道を下っていくと、一般名称ピエヴェ・ディ・コルシニャーノ、正式名称ピエヴェ・ディ・サンティ・ヴィート・エ・モデスト教会に出ます。
道の途中には、やはり世界文化遺産に登録されているオルチャ渓谷の美しい景色を眺めながらお食事ができるレストラン、巡礼者用の簡易宿泊施設などがあります。
ピエヴェ・ディ・コルシニャーノの広場の端には湧水があり、上を見上げると17世紀の終わりに建てられたサンタ・カテリーナ教会が見えます。

そしてピエヴェ・ディ・コルシニャーノはというと、地元の黄土色の石材で建てられていて、11世紀から12世紀のロンバルディア地方の影響を受けたロマネスク様式です。

ピエンツァがルネサンスの理想郷をめざして形成された街で、こちらは中世初期から時間が止まったような印象を受ける景色です。
教会出入口はロマネスク時代独特の幾何学模様と人魚や竜など架空の生き物を含むモチーフで飾られ、メインゲートの上の二連窓の柱は女性の姿がかたどられています。
キリスト教と結びつけられたイメージの筈なのですが、謎に包まれたロマネスク時代の装飾です。
正面に向かって右側の壁面にも出入り口があります。こちらは隣接する建物が工事中で近付けませんでしたが、東方三賢王の巡行の浮彫です。
梁に3頭の馬の浮彫の出入り口
Vignaccia76, CC BY-SA 3.0
内部も外観と同じく素朴な姿で、ロマネスク時代の浮彫装飾の祭壇や柱頭装飾があります。




そして、壁際になにげなく置かれているのが、ピエンツァを作らせた教皇ピウス2世と彼の甥の教皇ピウス3世が洗礼を受けた、ロマネスク様式の装飾が施された洗礼盤です。
ピウス2世はこの地コルシニャーノ出身で、11世紀からシエナに記録が残る伝統ある裕福な商人ピッコローミニ家に生まれ、ルネサンス期の教皇となりました。
教皇在位は1458年から1464年の6年間。この間にピエンツァの街をレオン・バッティスタ・アルベルティの計画案をもとに,建築家ベルナルド・ロッセリーニの設計で作らせました。

シエナの聖カテリーナを列聖し、オスマン帝国に対して十字軍遠征を強力に進めるも、軍の出航地となっていたアンコーナ(アドリア海に面したイタリアの港)に赴いたところで病死し、彼の死とともに十字軍計画も中止されました。
甥のピウス3世は枢機卿時代にシエナの大聖堂にピッコローミニ図書館を作らせたり、ミケランジェロに礼拝堂を依頼したりしています。親戚を厚遇するネポティズムによって22歳の若さで枢機卿になり、有能だったため伯父のピウス2世の死後も教皇たちに重用され実績をのこしました。教皇アレクサンデル6世の後、1503年に教皇の座につき、教皇庁の腐敗の改革に取り組む意向を発表したのですが、わずか26日で急死しています。そのあとの教皇はユリウス2世です。
ピウス2世が誕生したのは1405年10月18日、亡くなったのは1464年8月14日。
ピウス3世が誕生したのは1439年5月29日、亡くなったのは1503年10月18日。
イタリア半島が、都市国家体制のもとで文化芸術経済においてトップを走ってルネサンス文化が花開いた時期から、大国フランス・スペインの代理戦争の場へと落ちていく姿を、二人はどのような気持ちで教皇庁から眺めていたのだろうかと思いました。
2021.2.10

shinako

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