少し前のことになりますが、2017年1月から4月にかけて、東京都美術館で、「ティツィアーノとヴェネツィア派」展が開催されました。そのときの「目玉」になった絵画が、ティツィアーノの《フローラ》と《ダナエ》でした。(《ダナエ》と「ヴェネツィア派」については、後にふれることにします。)
ティツィアーノ《フローラ》
Titian, Public domain, via Wikimedia Commons
ウフィツィ美術館 1515年頃 79cm×63cm
さらに以前ですが、2008年春には、上野の国立西洋美術館で、「ウルビーノのヴィーナス-古代からルネサンス、美の女神の系譜」展が、「日伊国交樹立150周年記念」として開催されました。《ウルビーノのヴィーナス》はむろんティツィアーノの作品。
ティツィアーノ《ウルビーノのヴィーナス》
Titian, Public domain, via Wikimedia Commons
ウフィツィ美術館 1538年 119cm×165cm
これらの展覧会名が、一方は「ティツィアーノ」、他方は「ウルビーノのヴィーナス」というティツィアーノ作品になっているところからしても、ティツィアーノ(1488/90年-1576年)がイタリアを代表する画家のひとりとして位置づけられていることは明白でしょう。
この《フローラ》と《ウルビーノのヴィーナス》は、フィレンツェのウフィツィ美術館にあるのです。コロナ禍が終わったら、フィレンツェへの旅が可能になることを願いつつ、ティツィアーノについて書いていきます。
《ウルビーノのヴィーナス》は、のちのウルビーノ公グイドバルド・デッラ・ローヴェレのために制作された作品だとのこと。この絵に描かれた「薔薇の花束、忠誠の象徴である子犬、窓辺のミルテの鉢など、愛と結婚の象徴に満ちている。背景の侍女たちは、婚礼衣装を長櫃〔衣装箱〕から取り出しているのだろう」と説明されています。(石鍋真澄監修『ルネサンス美術館』小学館)
《フローラ》については、「しばしばティツィアーノは、富裕な注文者に現世の愛を暗示するために象徴的なイメージとして女性像」を描いたのですが、その例が、この《フローラ》だとされています。(フィリッポ・ペドロッコ著/池田亨訳『ティツィアーノ』東京書籍)
ヴェネツィアの国力・経済力の全盛期は15世紀でした。大航海時代の到来で、スペインやポルトガルの力が強まり、他方、オスマン帝国の台頭があり、16世紀にはヴェネティアの勢力はかげりを見せはじめます。しかし、文化面では、16世紀にヴェネツィアは全盛期を迎えることになります。そういう時代のヴェネツィアに現れたのがティツィアーノでした。
「フローラ」というのは、ローマ神話における花と春の女神の名前。多くの画家がフローラを描いていますが、ウフィツィ美術館の名品・ボッティチェッリの《春(プリマヴェーラ)》にも、右端にいる「西風」がニンフのクロリスを花の女神フローラに変身させるところが描かれていることはご存知でしょう。
「高級娼婦」?
さて、ペドロッコ『ティツィアーノ』では、《ウルビーノのヴィーナス》のヴィーナスは「コルティジャーナ」(高級娼婦)として描かれていること、また、「フローラ」は、古代ローマでもっとも人気があり奔放だった祭りの主役「娼婦フローラ」と関連した寓意であることが述べられています。
つまり、この2作品は「娼婦」として描かれている、あるいはそれに関連する、というのです。現代の日本人が「娼婦」ということばから受けるイメージはともかくとして、当時のヴェネツィアの「娼婦」は独特の存在だったようです。
美術史家・文化史家である池上英洋氏の『イタリア 24の都市の物語』(光文社新書)をみると、そのヴェネツィアの箇所は、「遊郭の詩人」と題されています。それによれば、当時は、『ヴェネツィアの花形娼婦総覧』などというものまであったとのこと。当時のヴェネツィアは地中海随一の貿易港として繁栄し、富を求めて世界中を行き交う男たちが集まる場所でもあり、男性の数が女性の数よりずっと多かったようです。
少し後の時代になりますが、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』(1596-99年頃の作。岩波文庫、白水社Uブックスなど)を思い出せば、登場人物のポーシャは富豪の娘、アントーニオの財産はひとえに航行中の船にかかっている状況、という設定で物語は展開します。海上貿易で栄えたヴェネツィアの一面がうかがえる作品です。
池上氏によれば、娼婦にかかわる産業は「この港町の一大産業となっていた」というのです。そのなかには、高い教養によって身を立てるようになっていた女性たちもいて、その女性たちは「コルティジャーナcortigiana」と呼ばれました。このことばの前半分はCorte(宮廷)で、元来、コルティジャーナは宮廷女性を意味することばでした。
当時のヴェネツイアは、ヨーロッパ中から芸術家・文人がやってくる街でもあったのです。少し後の時代ですが、ゲーテもヴェネツィアを訪問(1780年代)し、『イタリア紀行』(岩波文庫)を書き、ゴンドラに乗ったときにみた風景、陽光などを想起しつつ、ティツィアーノが「色彩の明るさや明澄さを最高度に発揮した」と評しています。また、17世紀初めころから2世紀あまり、イギリスの貴族階級の子弟の間では、学業の最後にイタリアへの「グランドツアー」をすることが盛んで、ヴェネツィアも訪問先のひとつになっていました。
また、今は亡き須賀敦子さんのエッセイ「ザッテレの河岸で」(『ヴェネツィア案内』新潮社、所収)によれば、コルティジャーナの多くは、「ギリシア、ラテンの古典はもとより、イタリア文学や哲学、そしておそらくは神学にも精通していて、そのうえ楽器を奏し、歌がうたえるなど、文化のあらゆる分野にわたる教養を身にそなえていることが肝要であった。ようするに、美貌だけでなく、教養のある男性と同等に会話を愉しめるというのが「高級」であることの必須条件だったのである。」というわけです。
ですから、この種の女性の存在はヨーロッパ中に知られていたとされています。(イアン・G・ケネディー『ティツィアーノ』TASCHEN、参照)
というわけですから、ティツィアーノが描いた《フローラ》や《ウルビーノのヴィーナス》も、そういうコルティジャーネだったと想像すれば、これらの作品が「高級娼婦」を描いたという説明に、さほどの違和感はおぼえなくなるのではないでしょうか。
また、このケネディーの本には、ティツィアーノ《フローラ》は、オランダのレンブラント(1606-69)にインスピレーションを与えたとあります。レンブラントの《フローラ》は、新妻サスキアを描いた作品だとのことです。比較すると、いかがでしょうか。
レンブラント《フローラ》
Rembrandt, Public domain, via Wikimedia Commons
メトロポリタン美術館(NY) 1654年頃 100cm×91.8cm
2021.5.22

藤尾 遼

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