フリードリヒ2世とシチリア

 フリードリヒ2世(1194〜1250)は、パレスティナ地域におけるキリスト教勢力とイスラーム勢力の共存をはかった人物です。フリードリヒのイタリア語読みはフェデリコですので、イタリアではフェデリコ2世としてよく知られている人物ですが、ここではフリードリヒ2世と書きます。

Frederick II, Holy Roman Emperor

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フリードリヒ2世

十字軍とフリードリヒ2世

 そのフリードリヒ2世の時代、パレスティナはどういう状況にあったのでしょうか。

 さらに時代をさかのぼると、1096年に始まった「十字軍」運動は、1099年にエルサレムを占領し、「エルサレム王国」を誕生させました。しかし、その後キリスト教勢力は、エルサレムの占領を継続できず、アッコンという港湾都市を中心とするごく限定的な勢力圏を持つにとどまっていました。

 フリードリヒ2世の父は、ハインリヒ6世(ドイツ人、神聖ローマ皇帝)。ハインリヒ6世はシチリア国王の娘(フランス系イタリア人)と結婚し、シチリア王にもなっていました。フリードリヒ2世は、父の死後、シチリア王の地位を継承し、ローマ教皇の勧めによって、今のスペインにあったアラゴン王国の国王の娘と結婚し、やがて神聖ローマ帝国皇帝となります。この妃と死別後の1225年にエルサレム王ジャン(フランス出身)の娘ヨランダと結婚し、フリードリヒ2世はエルサレム王にもなりました。

 神聖ローマ皇帝がシチリア王であり、エルサレム王でもあるなどというのは、現代ではイメージしにくい事態ですが、当時は王位が結婚によって継承されるという時代でしたし、王家の間の「国際結婚」もよくある話でした。

シチリアの特徴

 シチリアというと、古い映画ですが、F.コッポラ監督の『ゴッドファーザー』とか、ヴィスコンティ監督の『山猫』などが思い出されますが、それはともかくとしましょう。

 シチリアは、地中海のほぼ真ん中に位置する島です。そういう地理的関係から、シチリアにはいろいろな民族がはいり込み、紀元前にはギリシャの勢力圏に入っていました。

 現在でも、シチリアのアグリジェントに行くと、古代ギリシャ風の壮大な神殿の石柱が立ち並んでいて往時を偲ばせてくれます。

 私も15年ほど前にアグリジェントに出かけ、神殿跡の壮大さに驚いたものでした。残っている数少ない写真から1枚。

アグリジェントにある神殿跡(撮影・藤尾)

 シチリアはその後、ローマ帝国、続いて東ローマ帝国が支配し、9世紀後半にはイスラーム勢力が、そして11世紀には北方のノルマン人が支配する、ということで、いろいろな民族が入り込みました。ノルマン人は、少数勢力だからということも作用してか、アラブ人を異教徒だとして排斥せず、共存をはかっていました。

 この共存の様子は、シチリアのパレルモの街を歩けば、現在でもうかがうことができます。イスラーム風の屋根をもった建築が眼に入りますし、ノルマン王宮には、アラブ・ノルマン様式の礼拝堂があります。イスラームとビザンチンの融合した様式をうかがえる場所もあります。

Mosaic of Christ Pantocrator

© José Luiz Bernardes Ribeiro
パラティーナ礼拝堂内のモザイク

 そういう環境もあり、フリードリヒ2世は高等教育こそ受けなかったものの、ギリシャ語、アラビア語、ラテン語、ドイツ語、フランス語、イタリア語を自由に繰ったといいます。

和平協定の成立と破綻

 フリードリヒ2世の時代には、先にみた「エルサレム王国」は、存続していたのですが、その王国当初の勢力圏に比べると、範囲は狭く、エルサレムはイスラーム支配下にあり、王もアッコンという海港都市に住むという状況でした。そこで、ローマ教皇はフリードリヒ2世に「十字軍」を率いて、エルサレムの「奪還」を図るよう指示します。

 フリードリヒ2世は、疫病の蔓延などを理由に、なかなか派兵しようとしません。教皇から「破門」を申し渡されたりした後、ようやく船団を整え、兵を率いて28年にアッコンに上陸します。しかし、フリードリヒ2世はイスラーム側と戦火を交えるということはせず、イスラーム側との交渉をしたのです。

 この頃は、イギリス王、フランス王、スペイン王には、「十字軍」遠征を実行するには困難な国内事情がありました。そういうなかでのフリードリヒ2世の出兵でした。他方、イスラームの側にも、結束して「十字軍」との戦闘に乗り出しにくい状況がありました。ダマスカス、カイロ、バクダードの3勢力の覇権争いなどがそれです。フリードリヒ2世は、イスラーム世界の実情、行政に関するきわめて詳しい知識を持っていたようです。

 そういう背景があって、フリードリヒ2世は、イスラーム世界の有力者、エジプトのスルタンであるアル・カミールと交渉。翌29年に、エルサレムの一部はイスラーム地区とし、それ以外のエルサレムはキリスト教側に譲渡される、という講和に至ります。ただし、講和の有効期間は10年。エルサレムは、イスラームの支配下にはあるのですが、キリスト教徒にも開かれた街としたわけです。その後の10年間もこの両者の共存は続きました。

 しかし、ローマ教皇は、この講和が気に入りません。一方、アル・カミールに対しても、エルサレムを敵に譲り渡したとして非難の声があったのです。

 この講和も、次の「十字軍」によって破綻し、やがて1291年には「エルサレム王国」は滅亡し、キリスト教勢力は中東における拠点を完全に喪失してしまいます。

講和をどうみるか

 塩野七生は、『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』(新潮社)において、「なぜか、穏健は過激に対して分が悪い、理に訴えるよりも情念に訴えるほうが、より多くの人に影響を与えることができるからであろうか。」と述べています。

 ここでいう「穏健」とは、武力ではなく交渉によってエルサレムの問題に対応しようとしたフリードリヒ2世の立場およびアル・カミールの立場を指しています。これに対し、力ずくでエルサレムを奪回せよなどと叫ぶような立場が「過激」です。交渉によって和平を目指すことを嫌い、むしろ戦闘をよしとする指導者が権勢をふるうのは、古今東西同様なのかもしれません。

 とはいえ、「穏健」が「過激」を抑え、キリスト教勢力とイスラームの「共存」のための講和を結んだことは意義深く、記憶されるに値するでしょう。

ルネサンスの先駆

 フリードリヒ2世自身がドイツ人の父とフランス系イタリア人の母という「混血」の人でしたし、生育地も、諸民族の共存の伝統のあるシチリアでした。彼は、先にふれたように、アラビア語を解し、イスラーム側のスルタンと通訳なしで会話ができたといいます。相互理解をしやすい。

 フリードリヒ2世はまた、イスラーム世界の学問の先進性もよく認識していました。イタリアにおけるルネサンスの始まりはイスラム文献やイスラームに継承されていたギリシャ語文献の翻訳にあるとされますが、フリードリヒ2世はその先駆者といっていいでしょう。

 イタリアでは、ボローニャ大学が最古の大学として有名ですが、ボローニャ大学は神学部中心の大学でした。「世俗」的な学問を中心とする大学としては、フリードリヒ2世が創始したナポリ大学(今はフェデリコ2世ナポリ大学)が、ヨーロッパ最古の大学といえます。

*パレルモ空港へは、フィレンツェ空港から飛ぶことができます。格安航空券も利用可能。
 フィレンツェ付近の空港からでしたら、ボローニャとかピサからの便もあります。

投稿者プロフィール

藤尾 遼
藤尾 遼
イタリア大好き人間。趣味は読書・旅行・美術鑑賞・料理(主にイタリアン)。「フィレンツェ・イン・タスカ」に不定期に寄稿。

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