レオナルド・ダ・ヴィンチ ~その3~

先回、フィレンツェにある絵画について述べた際に、絵具のことにふれました。今回はそれを受けて、油彩画について少し書きます。

フィレンツェを訪れると、なぜこのような地理的環境の場所でルネサンスが花開いたのだろうかという疑問がわきます。

その点、ヴェネツィアは比較的わかりやすい。
海上貿易で繁栄したということは、ヴェネツィアに行けば、如実に感じられます。

そこで、池上俊一氏の『フィレンツェ』(岩波新書)の記述に頼ることにします。
この本によると、14世紀半ばから15世紀いっぱい、フィレンツェでは「織物生産が終始フィレンツェに堅固な産業ベースを与えて富を激増させた」とされています。

そして、「とくに北ヨーロッパに販路を拡大できたことが幸いして、毛織物業は16世紀後半まで繁栄をつづけた」といいます。

また、15世紀の第2四半期以降、絹織物業も本格的な展開をみせ、「北ヨーロッパでも聖俗宮廷にフィレンツェの絹織物製品が売られた。

取引市場はブリュージュ、ロンドン、ジュネーヴ、リヨンなどで、16世紀にはアントワープも加わり、さらに南ドイツや東欧にも市場は広げられた」とのこと。

さらには、麻織物業も発展し、「繊維こそ中世からルネサンス期にかけてのフィレンツェ産業の中心でありつづけた」のであり、「繊維業を中心とする手堅い経済力こそが、フィレンツェのルネサンス文化を基礎から支えた」というのです。(ブリュージュはブルッヘともいわれる。ブリュージュは、フランス語ふうの表記。)

フィレンツェの有力家門として知られるメディチ家は、金融業を軸として台頭してきますが、このメディチ家が重視したパトロン制度(パトロネージ)が、ルネサンス期のフィレンツェでは、芸術家たちの台頭に大きな役割を演じました。

ちなみに、ウフィツィ美術館から300メートルほどの距離にある中世邸宅博物館(ダヴァンツァーティ宮)は、15世紀後半に毛織物商人ダヴァンツァーティが購入して住んだところです。
内部を見学できるので、往事の商人の豊かな生活をうかがうことができます。

若桑みどりさんの名著『フィレンツェ』(講談社学術文庫)によると、「メディチをはじめとする銀行家や毛織業者がフランドルに支店を置いていたりしたことで、一五世紀の七〇年代以降に多くのフランドルの油彩画がフィレンツェに入ってくる」というわけです。(フランドルとは、現在のフランス北部からベルギー西部、オランダ南部に相当する地域で、毛織物業を中心として繁栄した地域でした。)

フランドルの画家といえば、ヤン・ファン・エイクを含むファン・エイク兄弟(1395頃-1441)がまず登場するのですが、ヤンは、油彩技法の刷新者でした。

他には、レオナルドとほぼ同時代人のフランドルの画家には、ヒエロニムス・ボス(1450頃-1516)がいるし、レオナルドの死後の画家としては、ピーテル・ブリューゲル、さらに時代が下ってルーベンスなどがいます。

若桑さんによれば、メディチ家の関係者が輸入したフランドルの画家ヒューホ・ファン・デル・ホース(フーゴー・ファン・デル・グース)の「ポルティナーリの祭壇画」(1475頃、ウフィツィ美術館蔵)は、「油絵による、写真のように精密な現実再現の技法と視覚をフィレンツェにもたらした。これにレオナルドが続くのは当然である」というのです。

Portinari Altarpiece (1475-1476). Oil on wood, 253 x 304 cm. Uffizi Gallery, Florence

Hugo van der Goes, Public domain, via Wikimedia Commons

レオナルドがベロッキオのもとで学び、「キリストの洗礼」などを描いたのは、ちょうどフランドル絵画の技法がフィレンツェに伝わり始めた頃にあたります。
そして、レオナルドは、「科学的で光学的とさえいいうるような視覚のリアリズムを油彩やテンペラで追求した」というのです。
その追求の発端が、「盛期ルネサンスの発端」として、フィレンツェに残っているというわけです。

投稿者プロフィール

藤尾 遼
藤尾 遼
イタリア大好き人間。趣味は読書・旅行・美術鑑賞・料理(主にイタリアン)。「フィレンツェ・イン・タスカ」に不定期に寄稿。

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