ラファエロとフィレンツェ
ラファエロ作品はフィレンツェにもたくさんあるので、フィレンツェを旅する人におすすめです。
ラファエロとフィレンツェ
ラファエロは、1504年にウルビーノからフィレンツェに出てきました。
当時フィレンツェでは、ヴェッキオ宮殿(政庁舎)の壁画装飾として、レオナルド・ダ・ヴィンチが《アンギアーリの戦い》を、ミケランジェロが《カッシナの戦い》を、それぞれ受注して制作にとり組んでいました(ともに未完成に終わりましたが)。
1504年は、ミケランジェロの《ダヴィデ像》完成の年でもあります。
このふたりの競作が若きラファエロに大きな影響を与えたことは、想像に難くありません。
ラファエロは、フィレンツェで上流貴族の肖像画や聖母子像を数多く描きした。
なんと、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロという3巨匠が、短期間とはいえ同じ時期にフィレンツェにいたことになります。
ルネサンス盛期を象徴するような事態です。
ヴァチカン
1508年、ラファエロは、ローマ教皇ユリウス2世に呼び寄せられてヴァチカンに赴き、壁画装飾などを担いますが、めきめきと頭角を現しました。
ヴァチカン美術館「署名の間」に残る《アテナイの学堂》が、その代表的な傑作です。
ちょうど、ミケランジェロの《システィーナ礼拝堂天井画》制作時期と重なります。
ラファエロは、ユリウス2世の次の教皇・レオ10世にも重用され、名声は高まりましたが、1520年に亡くなります。まだ37歳でした。
こうした経緯から、「prolific」(多作)と言われるラファエロ作品がローマ、ヴァチカンに数多く残っているのは当然ですが、フィレンツェにも多く残っているのです。
ウフィツィ美術館に残るラファエロの《レオ10世と2人の枢機卿》は、ローマ教皇とラファエロのつながりの深さを雄弁に示す作品です。
フィレンツェのラファエロ作品
フィレンツェに伝わるラファエロ作品は、先に述べたように、上流階級が要望していた聖母像や肖像画が中心でした。
それらの現在の主な展示場所は、ピッティ宮殿内のパラティーナ美術館であり、ウフィツィ美術館です。
パラティーナ美術館でぜひ見ておきたい作品は、《大公の聖母》《小椅子の聖母》《ヴェールの女》でしょう。
ほかにも肖像画がいくつかあります。多くのばあい、聖母子像も肖像画も、上流階級の依頼で描かれたものです。
ウフィツィ美術館では、《ひわの聖母》が代表格でしょう。中央にマリア、向かって右がイエス、左に「ひわ」を持つヨハネが描かれています。ヒワは、イエスの受難の象徴といえるアザミを食べる鳥なので、イエスが受難に打ち勝つことを暗示しているのでしょう。
この作品では、人物配置の骨格が、マリアの頭部を頂点とする三角形のようになっていて、構図に安定感があります。
ラファエロの描く聖母像では、マリアの顔立ちの美しさ・崇高さが際立ち、また、《大公の聖母》のばあいはことに、やさしさとともに安定感が感じられます。
繁栄をきわめたフィレンツェ
ラファエロの生きた時代のフィレンツェは、共和制でしたが、メディチ家が支配する社会でもありました。
メディチ家の他にも、有力な家門は多く、彼らは繊維産業や金融業で巨万の富をもち、ヨーロッパ随一といえる繁栄をほこっていました。
数ある有力家門は、それぞれの名誉のために「パトロン」となり、教会などに競って寄進をしたのですが、それが建築や彫刻・絵画に使われたのです。
ときはまさに盛期ルネサンス。巨大建築ができ、そこに豪奢な材料が使われたのには、こういう背景があったのです。
有力な家門にとっては、その繁栄の継続のために、「結婚」はきわめて重要なものでした。
ラファエロたちの描いた肖像画や聖母像は、そういう有力家門での結婚に際して制作されたものが多いのです。
パラティーナ美術館に残るラファエロの《ベルナルド・ドヴィーツィ(ビッビエーナ)の肖像》の豪奢な朱色の衣服など、パトロンの威力をしのばせるものでしょう。
ラファエロの肖像画などをみるばあい、衣服や装飾品の豪華さに着目するのも一興です。
投稿者プロフィール
- イタリア大好き人間。趣味は読書・旅行・美術鑑賞・料理(主にイタリアン)。「フィレンツェ・イン・タスカ」に不定期に寄稿。
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