カラヴァッジョ(その3)

バリオーネの『カラヴァッジョ伝』に見るカラヴァッジョ作品評

 カラヴァッジョ(その1)の冒頭で石鍋真澄氏編集の『カラヴァッジョ伝記集』(平凡社、2016年)のことにふれましたが、これは、主に17世紀にイタリアで刊行されたカラヴァッジョの伝記を並べた著作です。そのなかには、カラヴァッジョ作品が同時代にどのように受容されたかなどを、興味深く伝えているバリオーネ(画家・著述家)の「カラヴァッジョ伝」も含まれています。

 少しその例をあげてみましょう。ローマのサンタゴスティーノ聖堂にある《ロレートの聖母》(1604-06年、250×150cm)についてです。
  この絵は【ロレートの聖母 カラヴァッジョ】で検索してみてください。
 そのバリオーネはつぎのように書いています。

「カラヴァッジョは、サンタゴスティーノ聖堂の左側の最初の礼拝堂に、《二人の巡礼者を伴うロレートの聖母》をモデルから描いた。巡礼者の一人は泥まみれの素足をあらわにし、女性のほうはほこりだらけのほころびた頭巾をかぶっている。そして人々は、偉大な作品がもつ細部のこうした軽率さのために、この絵について大いに騒ぎ立てたのである。」(60頁)  この絵について人々は「大いに騒ぎ立てた」というのですが、いったいこの絵のどこが「騒ぎ」を起こす原因だったのでしょうか。

宮下規久朗氏『カラヴァッジョ巡礼』を参照すると

 《ロレートの聖母》の画像を参照しつつ、バリオーネのこの史料を素直に読めば、巡礼者男性の「泥まみれの素足」を、巡礼者女性の「ほこりだらけのほころびた頭巾」を描いたことが「軽率」であり、「騒ぎ」を起こす原因だったということになるでしょう。
 この絵について、宮下規久朗氏の『カラヴァッジョ巡礼』(新潮社、2010年)では、次のように述べられています。

「人々は自分たちと同じような姿をした人物が絵の中にいるのを見て驚き、興奮したのだろう。
 当時のローマは西洋中から巡礼者が集まって来ており、この教会は、サン・ピエトロ大聖堂に向かう彼らの通過点にあった。画家はこの絵のおもな鑑賞者が巡礼者であることを考慮して、彼らの前に聖母が顕現した情景をリアルに描いたのだろう。聖母子は現実的でありながら聖性を感じさせる」(74頁)  というのです。この見方に通じるような見解が、ゴンブリッチの『美術の物語』にも見られます。
 この『美術の物語』(ファイドン)は、アルタミラとかラスコー洞窟の壁画から現代美術までを通観した著作で、初版は1950年刊行ですが、その後も読み継がれてきた世界的なベストセラーです。(日本語版は、第16版=1995年刊の翻訳、2007年)

ゴンブリッチの見方

 《ロレートの聖母》に直接に言及しているわけではありませんが、ゴンブリッチのこの本には、ローマにこの絵が出現したときの「騒ぎ」に関連するような記述があります。

「習慣や先入観を捨て去る気になれないのは困ったものだ。すぐれた作品を楽しむうえで、これほど邪魔なことはない。なじみの主題を思いがけない手法で描いた絵が、どこかしっくりこないというただそれだけの理由で、非難されたりする。ある物語を描いた美術作品を何度も見ていると、その物語にはそういう描き方しかないと思い込んでしまうのだ。とくに聖書の主題に対しては感情的になりやすい。〔中略〕私たちになじみのイエスや神の姿を作りだしたのは、まさしく過去の芸術家たちだ。そういうことを私たちはよく承知している。それなのに、伝統的な表現形式から離れることを神への冒涜と考える人が跡を絶たない。」(序章、29ページ)

 ゴンブリッチは、別の箇所では、次のように書いています。

「彼〔カラヴァッジョ〕が欲しかったのは真実、自分が見たままの真実だった。だから、古典的な手本にはなんの魅力も感じなかったし、「理想の美」など気にもかけなかった。彼はいままでの絵画の常識を捨てて、美術をゼロから考え直そうとした。その結果、あいつは世間を驚かせようとしているだけだ、そもそもどんな美や伝統も尊重する気なんてないのだ、と言う人までいた。こういう非難を浴びた画家は、彼が最初だったといってもいい。」(392ページ)  このように考えれば、ある人びとが、できあがった《ロレートの聖母》に接して、「大いに騒ぎ立てた」理由がわかろうというものです。

従来の絵画の常識を捨てた画家

 カラヴァッジョ作品に対する類似の反応は、別の作品に関しても見られます。先に引いた『カラヴァッジョ伝記集』に出てくるバリオーネが、カラヴァッジョの《聖母の死》(369×245cm)について書いているところです。

「カラヴァッジョは、トランステヴェレのマドンナ〔サンタ・マリア〕・デッラ・スカーラ聖堂のために、《聖母の死》を描いた。しかし、素足をあらわにし、身体をふくれ上がらせるなど、聖母の描き方があまりに品位に欠けていたために、その絵は取り払われた。そしてマントヴァ公がその絵を買い取って、マントヴァにある公のりっぱな画廊に飾ったのである。」(61頁)

 トランステヴェレというのは、テヴェレ川の向こう側と言う意味で、今もローマの下町ふうの感じがある地域です。
 この《聖母の死》は、「取り払われ」、現在はルーブル美術館にあるのですが、それはともかく、このカラヴァッジョ作品は、その制作を依頼した教会からは拒絶されたのでした。

  この絵は【聖母の死 カラヴァッジョ】で検索してみてください。

 教会からの拒絶の理由が、ここにバリオーネの書いている「あまりに品位に欠けていた」ということだったとすれば、それは、「習慣や先入観を捨て去る気になれない」人びとの反応だったのでしょう。
 しかし、教会から絵の引き取りを拒絶されても、それを買い取った公爵がいたのも他方の事実でした。(目利きの資産家が美術品を購入するなどして、芸術家を支援したことがイタリアで芸術が興隆した背景にあります。)
 加えて、カラヴァッジョより少し年少のルーベンス(1577-1640)は、フランドルからローマにやってきて、新旧多数の作品を研究し、カラヴァッジョ作品を高く評価したことが知られていますし、1630年にローマに行ったベラスケス(1599-1660)にもカラヴァッジョ作品が影響を与えたということも、絵画史上で知られたことです。

(追記) この「読み物」では、作品の写真を掲げていません。掲載しない理由にご関心がおありなら、この「読み物」の「カラヴァッジョ(その1)」の末尾をご覧ください。また、同じく末尾に、この「読み物」が「改稿版」であること、その理由も付記しました。

投稿者プロフィール

藤尾 遼
藤尾 遼
イタリア大好き人間。趣味は読書・旅行・美術鑑賞・料理(主にイタリアン)。「フィレンツェ・イン・タスカ」に不定期に寄稿。

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