カラヴァッジョ(その4)

サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂

 ローマのサン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂コンタレッリ礼拝堂の側壁には、カラヴァッジョの公的なデビュー作が掲げられています。向かって左手が《聖マタイの召命》(1599-1600年、323cm×343cm)です。

 この写真では、大理石の柱も写っていますが、3メートルを超える絵画の大きさも想像いただけるかと思います。

 向かって右手が《聖マタイの殉教》(1599-1600年、323cm×343cm)です。

 これら2作品についてある美術史家は、「1600年、このサン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂コンタレッリ礼拝堂の側壁の2点が公開されたとき、黒山の人だかりができたというが、今や世界中のカラヴァッジョ・ファンが押し寄せる聖地となっている」とし、また、「この斬新な宗教画により、カラヴァッジョの名は一朝にしてローマ中に轟いた」と書いています(注1)。
 そして、これらの作品について、「カラヴァッジョをローマ画壇の中心に押しあげただけでなく、まさにバロック美術の幕開けを告げたのです」(注2)とも書いています。

マタイという人物と《聖マタイの召命》

 ここに出てくるマタイというのはイエスの12使徒のひとりで、『新約聖書』の「マタイによる福音書」9章9に登場する人物です。カラヴァッジョが《聖マタイの召命》で絵画化した部分は、この福音書の次のような箇所でしょう。

「イエスは〔中略〕通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」(新共同訳)

つまり、徴税人だったマタイにイエスが、「わたしに従いなさい」と告げている場面です。この場面が劇的に描かれているといえるでしょう。
 『新約聖書』によれば、当時の徴税人は社会的に非常に低く位置づけられていました。そのことは、今引用した部分のすぐ後ろに、次のように書かれているところからうかがえます。

「イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人(つみびと)も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人人はこれを見て、弟子たちに、『なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。〔中略〕わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」  ここを読むと徴税人は罪人や病人と同列とみなされ、賤視されていたことがうかがえます(ただし、徴税人のなかには、圧政者の手先となって私腹を肥やす人もいたとされていますが)。イエスが呼びかけたのは、そういう人びとだったのです。
 この絵でまず眼を引くのは、外部からの光線です。その光線が、(窓からではなく)祭壇の側から差してくるように描かれているので、劇的効果が高まります。

《聖マタイはどこに描かれているのか》

 この絵には、右側にイエスとペテロが描かれ、左側のテーブルを前に着席している5人の人物が描かれています。この5人のうちのどれがマタイかという点については、美術史家の間で意見が分かれています。
 5人のうちの真ん中にいる人物がマタイだという従来からの意見(注3)があり、それに対し、近年では左端でうつむいている若い男がマタイだとする意見(注4)があります。
 この絵のマタイはどの人物なのかと、今なお問題になること自体、カラヴァッジョ作品が今もなお大いに人びとを惹きつけてやまないものであることを語っているといえるでしょう。

《聖マタイの殉教》

 カラヴァッジョが《聖マタイの召命》《聖マタイの殉教》を描くに至ったきっかけについて、カラヴァッジョと同じ時代を生きた画家・著述家のバリオーネは、簡略ながら述べています。それによると、ミラノからローマにやってきたカラヴァッジョは、あるきっかけで「熱心な絵画愛好家」のデル・モンテ枢機卿から住む部屋と手当を与えられ、《若者たちの演奏》《リュートを弾く若者》《若者を占うジプシー女》などを描き、さらに「マムシの髪をもち、恐ろしい形相をしたメドゥーサの首を、円形の楯の上に描いた。この絵は、枢機卿からトスカーナ大公フェルディナンド〔一世〕に贈られた。」(注5)というのです。
 少し話が横道にそれますが、メドゥーサ(ギリシャ神話に登場する怪物)の首の絵は、現在はフィレンツェのウフィツィ美術館にあります。それは、元はといえば、トスカーナ大公に贈られたものだったのです。この大公はメディチ家の人間ですから、この作品がウフィツィ美術館に残った、という次第です。
 話を《聖マタイの召命》《聖マタイの殉教》に戻します。バリオーネは、ここの引用に続けて、次のように書いています。

「さらに、デル・モンテ枢機卿の尽力で、〔カラヴァッジョは〕サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂のコンタレッリ礼拝堂の仕事を与えられ、祭壇上に天使を伴う聖マタイを描いた。それから右壁にはマタイが救世主に召される場面を、そして左壁にはマタイが祭壇上で死刑執行人に刺殺される場面を他の人物たちとともに描いた。〔中略〕
 これらの作品は、〔中略〕カラヴァッジョの名声をいやが上にも高め、悪意をもった連中からさえ絶讃されたのである。」(注6)

《聖マタイの殉教》は、この絵の真ん中に描かれた「死刑執行人」の精悍な裸身に光があたり、剣をもって今まさにマタイを刺殺しようとしていて、周りにいる人物たちの視線もそこに注がれて、息詰まるような劇的な場面です。
 《聖マタイの召命》《聖マタイの殉教》の迫力ある画面に接すれば、この聖堂が、先の指摘にあったように、「世界中のカラヴァッジョ・ファンが押し寄せる聖地」になるのもうなずけます。

《聖マタイと天使》

 現在、これらのカラヴァッジョ作品はサン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂にあるのですが、そこのコンタレッリ礼拝堂の中央の祭壇には、《聖マタイの召命》《聖マタイの殉教》の2作品を左右に配し、大理石像が置かれることになっていました。しかし、この像の制作が不調に終わり、それに代わってカラヴァッジョが《聖マタイと天使》の絵を描くことになりました。今ここに引用したバリオーネの文章に、「祭壇上に天使を伴う聖マタイを描いた」と言われているのがそれです。
 この「マタイによる福音書」を書いたマタイをテーマにするについては、次のような習わしがあったようです。

「この聖人〔マタイ〕を描く場合には、聖人が聖書を書いている場面を描くのが習わしで、聖書が神の言葉であることを示すため、書き手に霊感を与える天使を描きそえるのがふつうだった。」(注7)

そこで、カラヴァッジョはこう考えたのだろうと、推測されます。

「初老の貧しい労働者であり、一介の収税吏である男が、突然、本を書かねばならなくなったとしたら、どんなふうに座るのだろうか。〔中略〕禿頭で、うす汚れた足をむき出しにした聖マタイが、分厚い書物を不器用につかみ、書くという不慣れな行為に緊張して、不安そうな面持ちで眉間に皺をよせている。かたわらには、天界からやってきたうら若きいままさに降り立ち、教師が子どもに接するように、この労働者の手をやさしく導いている。」(注8) けれど、このような構想のもとに描かれた作品は、「聖人に対する尊敬の念を欠いている」として拒絶されたとのこと。やむなくカラヴァッジョは、聖人を描く慣例に従った絵を描いた、というのです。
 これが、《聖マタイと天使》という作品に、2つのヴァージョン(ともに1602年の作)がある理由です。

《聖マタイと天使》の2つのヴァージョン

 【カラヴァッジョ 聖マタイと天使】で検索すると、2つのヴァージョンがともに出てきます。
 第1ヴァージョン、第2ヴァージョンという2つの異なったヴァージョンが成立した経緯について、ベッローリという人の「カラヴァッジョ伝」(1672年)に出てくるところを付け加えておきましょう。
 まず、カラヴァッジョが最初に描いた《聖マタイと天使》、つまり第1ヴァージョンについて、ベッローリによる伝記では次のよう述べられています。

「聖マタイの絵を完成して、それを祭壇に据えたところ、この人物は脚を組んで座ったり、無作法にも人々の前に素足をさらしたりしており、品位もなければ、聖人らしくもないとの理由で、神父らによって取り払われてしまった」(注9)

 ベッローリは、このあと、カラヴァッジョが大いに落胆したと書いています。しかし、ある侯爵(ジュスティニアーニ侯)が仲介役を買って出て、第1ヴァージョンを自ら引き取り、同じ主題でもう1枚描かせたというのです。これが第2ヴァージョン(1602年、292cm×186cm)で、今も祭壇上で見ることができるものです。

カラヴァッジョ

 これら2つの評価については、第1ヴァージョンのほうが優れているという意見(注10)もあります。それに対し、実際にコンタレッリ礼拝堂に置かれた絵の前に立つと、絵は下から見上げるような位置に置かれているので、絵を上から見下ろすような視線で描かれた第1ヴァージョンは、絵が置かれた空間という視点で考えればやや不自然であり、第2ヴァージョンのほうが自然だという意見(注11)もあります。
 《聖マタイの召命》のマタイはどの人物なのかという場合と同じことですが、《聖マタイと天使》の2つのヴァージョンの優劣比較が今なお問題になることも、カラヴァッジョ作品の魅力と表裏一体だと考えることができるでしょう。

 この第1ヴァージョンは、19世紀になってベルリンの美術館に移されましたが、第2次世界大戦期の1945年に消失してしまったとのことです。 (注1) 宮下規久朗『カラヴァッジョ巡礼』(新潮社、2010年)7頁、50頁。
(注2) 宮下規久朗『一枚の絵で学ぶ美術史 カラヴァッジョ《聖マタイの召命》』ちくまプリマー新書、62頁。
(注3) この意見は、石鍋真澄『カラヴァッジョ ほんとうはどんな画家だったのか』(平凡社、2022年)などで述べられています。宮下氏、石鍋氏は、ともに日本の代表的なカラヴァッジョ研究者です。
(注4) この意見は、前掲の宮下規久朗『カラヴァッジョ巡礼』などで述べられています。
(注5) ジョバンニ・バリオーネ「カラヴァッジョ伝」(1642年)、石鍋真澄編訳『カラヴァッジョ伝記集』平凡社ライブラリー、所収、57頁以下。ただし、バリオーネはカラヴァッジョとは対立関係にありましたから、同時代の記録とはいえ、割り引いて考えることが必要な「証言」もあるようです。
(注6) 前掲『カラヴァッジョ伝記集』58-59頁。
(注7) ゴンブリッチ『美術の物語』ファイドン、31頁。
(注8) 同。
(注9) ジョバンニ・ピエトロ・ベッローリ「カラヴァッジョ伝」(1672年)、石鍋真澄編訳『カラヴァッジョ伝記集』同前、76頁。
(注10) 例えば、ゴンブリッチ、前掲書の見解。
(注11) 例えば、石鍋真澄『カラヴァッジョ』前掲書の見解。

投稿者プロフィール

藤尾 遼
藤尾 遼
イタリア大好き人間。趣味は読書・旅行・美術鑑賞・料理(主にイタリアン)。「フィレンツェ・イン・タスカ」に不定期に寄稿。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA