メディチ宮の礼拝堂の空間

 20年以上前のことですが、私が最初にフィレンツェに旅行した際に数日間の宿としたのは、サン・マルコ美術館のすぐ近くでした。毎日フィレンツェ市内を歩いたのですが、私が宿泊していたその地域は、メディチ家礼拝堂やメディチ・リッカルディ宮殿のごく近くで、今思えばメディチ家の栄光を示す地域でもあったのです。

 メディチ・リッカルディ宮は、当初はメディチ家の邸宅だったと聞いて、たしかに堅牢ではあるにしても華やかさに欠ける外観だという印象を持ちました。しかしそれは、有力な一族といえども市民の反発を買って没落する事例に事欠かなかったフィレンツェで生き残るため、あえて目立たないような外観をという配慮の結果だったようだと、のちに知りました。外観は堅牢を旨としていても、その内部は豪華な作りです。

 今はメディチ・リッカルディ宮と呼ばれますが、それは17世紀になって、ここがリッカルディ家の所有になってからの名前です。ここではルネサンス期のことを書きますので、パラッツォ・メディチ(メディチ宮)と呼ぶことにします。

 このメディチ宮は、フィレンツェの政治を実質的に支配することになったコジモ・デ・メディチが、一家の居住用の邸宅として建設し、1457年に完成したとのことです。のちに、ミケランジェロにより改装されました。

 そのメディチ宮2階にある礼拝堂に、礼拝堂の壁を隙間なく埋める《東方三博士(マギ)の礼拝》という、絵の高さ4メートルほどに及ぶ荘厳な壁画を見ることができます。

 この「東方三博士の礼拝」がどのような話であるかということについては、この「読み物」の「レオナルド・ダ・ヴィンチの《東方三博士の礼拝(マギの礼拝)》」をご覧ください。

ゴッツォリ《東方三博士(マギ)の礼拝》

 その《東方三博士(マギ)の礼拝》を描いたのは、ベノッツォ・ゴッツォリ(1421頃-1497)で、画家フラ・アンジェリコの弟子です。フラ・アンジェリコの代表作ともいえる《受胎告知》があるサン・マルコ修道院は、コジモ・デ・メディチの時代に全面的に改修され、フラ・アンジェリコは、コジモから支援を受けるようになりました。コジモ自身もそこに自分の部屋を持つなど、メディチ家ゆかりの修道院でした。(修道院の一部が、サン・マルコ美術館となっています。)

 こういう関係があり、メディチ宮礼拝堂の壁画が、フラ・アンジェリコの弟子であるゴッツォリにその制作が委託されたのも自然なことでした。

 ゴッツォリは、この礼拝堂の全体を「三博士の旅」というテーマで統一して、その最後のところで、ベツレヘムにいます聖母子の礼拝に至るというように構成しています(1459-61年頃の作品)。

 礼拝堂内部の東壁→南壁→西壁と巨大な壁画をたどり、聖母子像に行き着くという次第です。

東壁の絵

 東壁には、若い博士の行列が描かれます。白馬に乗っているのが博士です。

 その後ろにいる人びとがこれです。

 ここに、白馬とともにピエロ、茶色の馬とともにコジモが描かれています(注1)。このピエロは、メディチ家の当主ピエロ・ディ・コジモ・メディチのことで、コジモの息子です。

 この絵では、メディチ一族は、東壁に向かって左下に描かれていますが、東・南・西の三面の壁画を見ていく際の、いわば出発点に当たるところに描かれているわけです。

南壁と西壁の絵

 南壁には、壮年の博士の行列が描かれています。

 西壁には、老年の博士の行列。ここの写真は、その一部です。

 東・南・西の三面の壁画の次に目にするのが次の祭壇画です。

祭壇画

 メディチ宮の祭壇画は、コジモ・デ・メディチの注文によって、フィリッポ・リッピが描いた作品です。しかし、フィレンツェでサヴォナローラが権力を掌握すると、メディチ家は1494年にフィレンツェから追放され、この祭壇画もメディチ宮から排除されます。その後、この絵はいろいろな変転を経て、現在はベルリン国立美術館に収まっています。そして、メディチ宮礼拝堂には、15世紀の第4・4半期の忠実なコピー(リッピ工房による)が置かれています(注2)。

 いずれにせよ、この礼拝堂の中で、東壁から南壁、西壁と「巡礼」してきた人びとは、リッピの祭壇画に接して、聖母子のもとに至るというわけです。

 ちなみに、フィリッポ・リッピは、修道士でもありましたが、ある修道女と駆け落ちして子どもをもうけ、修道院に出入り禁止となった人物。コジモ・デ・メディチの取りなしで、当時のローマ教皇から還俗を許されたといういきさつがあり、コジモとフィリッポ・リッピとの密接な関係がうかがわれます。フィリッポのこのときの子どもフィリッピーノ・リッピは、ボッティチェッリらに学び、画家になります。

三博士(マギ)の礼拝にちなんで

 画面にメディチ家の面々を描いたメディチ宮の壁画・祭壇画は、三博士の礼拝にちなみ、それを想起する祝祭という意味を持っていたのでしょう。

 ボッティチェッリの《東方三博士(マギ)の礼拝》(1475年ごろ。ウフィツィ美術館蔵)を見ると、コジモ・デ・メディチとされる人物がマリアの前でひざまずく姿があり、この礼拝図にはコジモの息子ピエロや孫たちまで描かれています。メディチ宮の壁画・祭壇画と同じ発想で描かれているのです。

 ボッティチェッリもフィリッポ・リッピに学び、メディチ家の保護を受けた画家でした。

《東方三博士(マギ)の礼拝》の政治的文脈

 このゴッツォリの《マギの礼拝》には、「東西教会の統一を図って一四三八年にフェッラーラで開催され、一四三九年にはフィレンツェに場所を移し継続された公会議の反映が伝統的に読みとられてきた。(注3)」と言われています。

 この時代、コンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国は、東方からオスマントルコの圧力を受けていて、1453年には滅亡したのです。その滅亡の直前の時期に、フィレンツェを舞台に公会議が開かれ、メディチ家はその会議を経済的に支援することで、フィレンツェ政庁や教皇庁における地位を高めたという経緯がありました。

 そういう時代に、エルサレムあるいはベツレヘムへの巡礼を描くというのは、一種の政治的意味を持ち、メディチ家の繁栄を祝う意味を持った、というわけです。

 興味深い解釈といえるでしょう。

 この解釈と直接の関係はありませんが、東ローマ帝国の滅亡に伴い、東ローマ帝国からは、学者たちもイタリアに逃れてきます。その学者たちの中のひとりが、上記の公会議にも参加したプレトンで、彼は、メディチ家にプラトン哲学を伝え、それがコジモによる「プラトン・アカデミー」の設立につながっていきます。これが、ルネサンスにおける「古代復興」におおいに意味を持ったことはよく知られているところです。

(注1) 人物の詳しい特定については、前川久美子『巡礼としての絵画 メディチ宮のマギ礼拝堂とゴッツォリの語りの技法』(工作舎、2009年)口絵を参照。
(注2) 前川久美子、同書、23頁以下。
(注3) 同書、25頁。

投稿者プロフィール

藤尾 遼
藤尾 遼
イタリア大好き人間。趣味は読書・旅行・美術鑑賞・料理(主にイタリアン)。「フィレンツェ・イン・タスカ」に不定期に寄稿。

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