サンタ・クローチェ教会
ヨーロッパ中世の修道会には、人里離れた修道院で祈りと労働の生活をするというタイプのものがありました。それに対し、都市に定着し、托鉢をしながら積極的に市民のなかで活動するタイプの修道会が登場しました。ドミニコ会、フランシスコ会などです。フィレンツェのばあい、ドミニコ会はフィレンツェの西部に拠点を置き、13世紀にその本拠となったのが、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会でした。これに対し、フランシスコ会は東部に勢力を広げ、サンタ・クローチェ教会を本拠としました。
以下、この教会については、池上俊一『フィレンツェ』などを参考にして説明します。
アルノルフォ
フィレンツェにもっとも巨大な影響を与え、遺産を残した建築家は、ブルネレスキとアルノルフォです。ブルネレスキは、フィレンツェのドゥオーモ(花の大聖堂)の上部にあるクーポラ(丸屋根)の建設で有名です。ブルネレスキの一世代前の建築家がアルノルフォです。
アルノルフォが手がけた建築の代表作は、第一に、ドゥオーモです。建築開始は13世紀末で、完成まで140年ほどかかっていますから、アルノルフォはその完成を見ずに亡くなりました。
第二は、フィレンツェの政治的中心となったヴェッキオ宮殿です。フィレンツェにおいて、ドゥオーモは宗教的なゴシックの代表作、ヴェッキオ宮殿は世俗的なゴシックの代表作です。
第三は、サンタ・クローチェ教会です。この教会は、上述のように、13世紀に発展したので、当初の教会は増築を繰りかえしていたのですが、13世紀末に再建が計画され、その設計依頼を受けたアルノルフォが石造り建築としたのです。
家族礼拝堂として
先に、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会に家族礼拝堂を置く有力家門があったと書きましたが、サンタ・クローチェ教会も同じです。14世紀のフィレンツェの有力家門が、この教会を利用しました。そのうちのパッツィ家礼拝堂は、ブルネレスキの設計によると伝えられますが、この礼拝堂が建設されたときには、もはやサンタ・クローチェ教会の内部にはスペースがなかったので、その外側の修道院回廊に面したところに置かれました。そして、この教会は、結果的にフィレンツェ美術が一望できる場所となったのです。この回廊やパッツィ家礼拝堂も美しい場所ですし、この礼拝堂には付属の美術館があります。
また、サンタ・クローチェ教会は、多数の文化人が埋葬されている場所としても知られています。「ダンテの記念碑」「ミケランジェロの墓」「マキャベッリの墓」「ガリレオの墓」などなど。作曲家のロッシーニも、ここに眠っています。
広場
先に、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の前の広場について書きましたが、サンタ・クローチェ教会の前の広場も同様の役割・機能を持っていました。
こうした広場は、むろん信仰と儀礼の場でしたが、同時に「遊び」の場でもありました。サンタ・クローチェ教会前の広場のばあい、有名なのは、今も毎年6月24日に行われている古式サッカーです。これは、15世紀にはすでに行われていたようです。
フィレンツェから遠くないシエナには、その中心にカンポ広場があり、世界遺産に登録されていますが、ここの「パリオ」といわれる13世紀から続くお祭りでは、一種の「競馬」が年に2回催されています。まさに、「祭り」あるいは「遊び」の場としての広場が使われているわけです。
投稿者プロフィール
- イタリア大好き人間。趣味は読書・旅行・美術鑑賞・料理(主にイタリアン)。「フィレンツェ・イン・タスカ」に不定期に寄稿。
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