はじめに
宮下規久朗氏『聖母の美術全史 信仰を育んだイメージ』(ちくま新書、2021年6月)が刊行されました。
古くは、3世紀後半のローマのカタコンベにみられる聖母像から、ヨーロッパの植民地となった南米などにおける聖母像、インド・中国・日本への伝播までも含み、さらには近現代の聖母像に至るまで、時間的にも空間的にも、広大なパノラマをみせてくれるたいへんに刺激的な本。新書本としては分厚い本です。
しかし、フィレンツェで考えると、やはりルネサンス期の聖母が中心になってしまいます。ウフィツィ美術館やパラティーナ美術館をはじめ、さまざまに「聖母」が描かれた作品があります。まずは、「受胎告知」のマリア像を取り上げましょう。
フィレンツェには、ウフィツィ美術館にレオナルド・ダ・ヴィンチの《受胎告知》があり、サン・マルコ美術館にはフラ・アンジェリコの《受胎告知》があることは、ご存知のかたも多いでしょう。
このレオナルド作品は、2007年に来日し、3月から6月まで、東京国立博物館で「レオナルド・ダ・ヴィンチ 天才の実像」展で展示されましたから、その際にご覧になったかたも少なくないでしょう。
レオナルド・ダ・ヴィンチ《受胎告知》
ウフィツィ美術館 1472年頃 油彩 板 98cm×217cm
「受胎告知」とその経過
レオナルドの《受胎告知》にはまた後にふれるとして、ここではまず「受胎告知」とはなにかを確認しておきましょう。
新約聖書のマルコ伝・ヨハネ伝には、マリアの名前は出てきません。そして、新約聖書のおよそ半分ほどの分量を占めるパウロ書簡にも、マリアの名前は出てこないのです。出てくるのは、マタイ伝とルカ伝ですが、この両福音書の記述は、やや異なっています。
マタイ伝では、マリアの夫ヨセフの夢に「主の天使」が現れて、イエスの誕生を告知していますが、天使がマリアに現れたという記述はありません。それに対し、ルカ伝では、26節以下に、「天使ガブリエル」がマリアのところに来て言ったという記事があり、ドラマのような趣があります。
ではつぎに、ガブリエルとマリアのことばのやりとりなどを、便宜的に付号を付けて抜き出してみましょう。(訳文は「新共同訳」より)
ガブリエル「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(a)
マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。(b)
ガブリエル「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」(c)
マリア「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」(d)
ガブリエル「神にできないことは何一つない。」(e)
マリア「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(f)
aとcは天使ガブリエルの告知、bはマリアの戸惑いと省察、dはマリアによる問いを示しているといえるでしょう。やがてそれが、fにおける受け入れ、祈りになっていきます。
このように分節化してみれば、さまざまな《受胎告知》図が、どの段階に力点を置いて描いているのかがわかるでしょう。
フィレンツェにおける《受胎告知》
ミケランジェロの《ダヴィデ》があるアカデミア美術館の近くに、サンティッシマ・アンヌンツィアータ聖堂があり、そのなかに《受胎告知》が描かれています。この作品のマリアの顔は天使が描いたものと信じられ、町の人びとの信仰を集めています。
信仰を集めているという点は、日本なら、たとえば京都・東寺で弘法大師空海の縁日「弘法市」が開かれるのに似ているのかもしれません。
《受胎告知》
同じく14世紀の作品で、ウフィツィ美術館にあるのが、つぎの像です。
シモーネ・マルティーニ《受胎告知》
ウフィツィ美術館 1333年頃 テンペラ 板 265cm×305cm
S.アンヌンツィアータ聖堂の聖母像をみると、天からマリアに投げかけられた声が文字の形で描かれているようにみえます。
マルティーニの聖母像では、画像が小さいとよく分かりませんが、画像を拡大しますと、ガブリエルとマリアの間の会話が文字で描かれているのがみえます。識者によれば、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と書かれているとのことです。
これをみて連想するのは、京都・六波羅蜜寺の空也上人像です。この像で空也の口から出ているのは、空也の唱えた「南無阿弥陀仏」の唱号の化身だといわれています。
康勝《空也上人像》
それはともかく、ふたつのマリア像は、ガブリエルからの告知を受けた後の
戸惑い、省察、問い、受け入れ、祈り
のうちのどの局面に当たるのでしょうか。
それまでの伝統的な「受胎告知」図に描かれたマリアは、天使ガブリエルのお告げを恭順に受け入れるという図像が支配的でしたが、マルティーニ《受胎告知》では、お告げに驚き、戸惑うマリアの人間的な感情が表現されたという点で画期的だったと、美術史研究者の小佐野重利氏は解説しています。(『芸術新潮』2014年10月号)
また、マルティーニ作品のばあい、ガブリエルとマリアの間に、白ユリが描かれているのが分かります。先に見たルカ伝には、ユリのことは出てきませんから、ユリは後世のマリア信仰のなかで登場したのでしょう。レオナルド《受胎告知》にも、ユリは描かれています。

藤尾 遼

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