先週は氷点下の日寒い日と、ぐずついた天気の後、一気に春がやってきたような天気で日中は20度まで上がっています。
こんな良い天気に感染症のオレンジゾーンからレッドゾーンも視野に入ってしまっているトスカーナです。感染者数よりも、トスカーナにイギリス型、ブラジル型、南アフリカ型の変異株が見つかり、感染経路が特定できないところに問題があるそうです。
さて今回は、先週2月18日が命日だったアンナ・マリーア・ルイーザ・ディ・メディチともう一人、アンナの兄フェルディナンド大公子の妻で、未亡人になってからもトスカーナ大公国に残り、大公家を支えたヴィオランテ・ベアトリーチェ・ディ・バヴィエーラのことを書かせていただきます。
アンナ・マリーア・ルイーザは最後のメディチ大公家の女性で、パット・ディ・ファミーリア(家族協定)をトスカーナ大公を兼ねた神聖ローマ帝国フランツ1世と取り交わし、それによってメディチ家の財宝や美術品を守ったことで有名です。
その功績をたたえて、毎年彼女の命日は、フィレンツェの美術館が無料になるなどのサービスがありました。今年はすでにオレンジソーンとなっていてすべて閉館でした。来年は彼女を偲びつつ楽しめたらよいなと思います。
フィレンツェでもっぱら名前が挙がるのはアンナ・マリーア・ルイーザなのですが、ヴィオランテ・ベアトリーチェ・バヴィエーラの方は有能な世継ぎとして期待されつつも梅毒で父より早く亡くなってしまったフェルディナンド大王子の妻でした。未亡人になった彼女は亡くなるまでシエナの知事のタイトルを持ち、教皇庁との親密な外交関係の担い手になった才女でした。

Niccolò Cassana, Public domain, via Wikimedia Commons ヴィオランテ・ベアトリーチェ
ヴィオランテの肖像画は大変美しいと思うのですが、夫のフェルディナンド大公子は醜い女性だと言って見向きもせず、趣味と遊興三昧で、ヴェネツィアで感染した梅毒が原因でなくなります。
夫に見向きもされなかったヴィオランテ・ベアトリーチェですが、彼女の方は彼を深く愛しており、亡くなった後に彼女の遺言で、遺体はサンタ・テレーザ女子修道院へ、心臓はメディチ家礼拝堂内のフェルディナンド大公子の足元に置かれました。
アンナ・マリーア・ルイーザはヴィオランテ・べアトリーチェの小姑にあたるのですが、ヴィオランテ・べアトリーチェが16歳で嫁いできた翌年に、選帝侯の元へ嫁ぎ、夫の死後、1703年に実家のフィレンツェに戻ります。アンナ・マリーア・ルイーザが嫁いだのは当時としては晩婚の23歳です。格下の家に嫁ぎたくないというプライドの高さと母親の評判の悪さが災いしたと言われています。
アンナ・マリーア・ルイーザは夫婦仲が大変良かったと言われていますが、流産し、子供がなかったことや、1713年に兄のフェルディナンド大王子が世継ぎを残さず亡くなり、年老いた父コジモ3世と頼りない義理の弟ジャン・ガストーネも世継ぎがなく婚姻生活は実質無いままだったことで、終焉の見えた実家に戻り、メディチ大公家の最期をみとることになるのです。
ヴィオランテ・べアトリーチェはアンナ・マリーア・ルイーザ同様に大変な才女で、コジモ3世も義弟のジャン・ガストーネも彼女を高く評価していたと言われています。
けれどアンナ・マリーア・ルイーザとヴィオランテ・べアトリーチェは、あまり仲が良くなかったらしく、2人の間をうまく平和に保つための処置が、ヴィオランテ・べアトリーチェのシエナ知事就任だと言われています。
ヴィオランテ・べアトリーチェがシエナに残した大きな足跡が伝統行事パリオ(競馬)のルール再編成です。今も受け継がれているパリオの規則は彼女の治世に制定されたものです。その就任時にも祝賀記念パリオが開催され、彼女もこのお祭りにパッションを持ったと言われています。
今年もパリオ開催が危ぶまれていますが、早く復活することを願っています。
皆様も体調管理に気を付けつつ、春の息吹を楽しんでくださいませ。
2021.2.24
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