2013年に、「メディチ家の館と庭園」が、ユネスコの世界遺産に登録されました。登録内容をみますと、メディチ家にゆかりのある館(ヴィッラ)が12館、庭園が2つです。フィレンツェ市内には、ピッティ宮殿のボーボリ庭園、フィエーゾレのメディチ家ヴィッラの2箇所がありますが、それ以外はフィレンツェ郊外にあります。そのため、短時間でこれらを見て回るのはかなり難しいでしょう。
しかし、この「メディチ家の館と庭園」に含まれないところでも、メディチ家ゆかりの場所などがフィレンツェ市内にあります。そこで、市内の見どころなどを先ず紹介(その1・その2)し、次に、2013年に世界遺産に登録されたところの一部を紹介(その3)しましょう。これらの場所も併せて回れば、印象がより強まるでしょう。
【1】メディチ家について
フィレンツェは、イタリア・ルネサンスの中心になった都市です。フィレンツェは、一方で毛織物業を背景に富を蓄積し、他方で為替や複式簿記を発明して、ヨーロッパの先進的な都市となりました。
毛織物工業では、イギリス・コッツウォルズの修道院で産み出された当時世界最高級品質の羊毛が送られてきて、アルノ川の水で洗われ、紅海沿岸からもたらされた赤色顔料(辰砂)や、サン・ジミニャーノ付近で育てられたクロッカス(黄色を出す染料となる)によって見事に染め上げられた毛織物が生産され、ヨーロッパで最も人気のある毛織物となった次第。そんなこともあり、フィレンツェのフロリン金貨が国際市場で最も価値があるという時代になったわけです。
下に掲げた絵画《エレオノーラ・ディ・トレドと息子ジョバンニ》は、以前に日本で開催された展覧会に出品されたことがありました。エレオノーラはコジモ一世(初代トスカーナ大公)の妻であり、コジモ一世はメディチ家の一員ですから、メディチ家にゆかりの作品です。
アーニョロ・ブロンズィーノ《エレオノーラ・ディ・トレドと息子ジョバンニ》
この作品は肖像画にはちがいないのですが、それにしてはエレオノーラの衣装がずいぶんと大きく描かれています。勝手に想像すると、この衣装はフィレンツェ産であり、それがまさしく富の象徴であることを描くことがこの絵のねらいだったという気がしなくもありません。
それはさておき、そのフィレンツェで台頭したのがメディチ家。コジモ・デ・メディチ(1389〜1464)が、いっとき追放されたフィレンツェに凱旋した1434年以降、おおよそ300年にわたるメディチ家支配が始まりました。メディチ家がローマ法王庁の御用銀行家となったということが大きな要因です。15世紀には、「世界最強の銀行」だったといえるでしょう。
ポントルモ《コジモ・デ・メディチ》
という次第ですから、フィレンツェ郊外に、世界遺産に登録されるような「館」がいくつもあるのは当然といえますし、市内にいくつも関連施設が残っているのも、これまた当然です。
メディチ家の紋章
メディチ家の紋章は、楕円形などの形で、金色、そこに数個の赤色の円形を配したもの。しかし、時と場合によって、楕円形とも限らず、また色も素材によってはまちまちです。しかし、いくつか見ると、これがメディチ家の紋章と分かるようになります。
《メディチ家の古い紋章》
この円形部分は、メディチ家がもとは薬の商人の一族だったので、丸薬に由来する(かつ「メディチ」という名前も「薬」と関連する)という見解もありますが、この円形は、メディチ家が銀行業(両替商)に関わったからだという説もあります。
いずれにせよ、フィレンツェには、所々にこの紋章が今も残っているのです。
たとえば、ウフィツィ美術館に入ると、天井画の装飾の中に、あるいは通路の上に、メディチ家の紋章が随所にちりばめられていることがわかります。
という具合で、フィレンツェの市内を歩くときには、メディチ家の紋章に着目したいものです。
【2】フィレンツェ市内でメディチ家に関連するところ
①ウフィツィ美術館 建築は1559年〜1580年。メディチ家のオフィスが置かれていた時期があります。
ここは、メディチ家の一員、コジモ1世(トスカーナ大公。1519〜1574)の構想によって出発した美術館で、メディチ家出身のトスカーナ大公たちが、ここに収集品を増加させることを重要な任務と考えてきたことで成り立っている美術館です。その結果として、メディチ家の当主たちが蒐集した古代の彫刻から、ルネサンス期の絵画などが収められています。
代表的な絵画に、ボッティチェッリの《春・プリマヴェーラ》(1477〜78年)と《ヴィーナスの誕生》(1488年)があります。これらの依頼主については、議論があるようですが、メディチ家の一員との関わりの中で制作され、ある時期にはメディチ家の邸宅に飾られていたことは確かです。
1444年あるいは45年にフィレンツェに生まれたボッティチェッリは、イタリア・ルネサンスを代表する画家のひとりであるフィリッポ・リッピの弟子として活動を始め、やがてメディチ家の愛顧を受けるようになりました。メディチ家とも関わるボッティチェッリの代表的な作品に、《ラーマ家の東方三博士の礼拝》があります。このテーマはむろんイエス・キリストの誕生に関連するものですが、大きな特徴は、その「三博士」の顔が、いずれもメディチ家の重要人物たちを描いたものでもあるというところにあります。
ボッティチェッリ《ラーマ家の東方三博士の礼拝》
ウフィツィ美術館3階の「第一廊下」には、古代彫刻が並んでいますが、これらはメディチ家の蒐集したものです。ミケランジェロなどが、古代彫刻に学んだことはよく知られています。
また、この廊下には、メディチ家代々の肖像画が掛けられています。
この美術館は、第二次世界大戦中にはナチスによる美術品持ち出しなどの被害を受けました。また、1966年には、市内を流れるアルノ川の大洪水による被害もありました。ジョルダーナ監督の映画『輝ける青春』(2003年、366分)は長い作品ですが、この作品には、アルノ川の洪水と、そこから美術品を救出しようとした人びとの姿が割合に詳しく描かれています。
映画の話題のついでに言えば、アイヴォリー監督の『眺めのいい部屋』(日本公開、1987年)には、アルノ川の美しいシーンが出てきます。古い映画ですが、印象深いシーンでした。
ヴァザーリ回廊
ウフィツィ美術館3階の「第一廊下」から「第二廊下」に曲がっていく場所の窓から外を見ると、アルノ川に架かるヴェッキオ橋(ポンテ・ヴェッキオ)が見えます。そのヴェッキオ橋の上部に付けられた構造物が、足下のウフィツィ美術館につながっているのがよく分かります。この上層部分が、ヴァザーリ回廊といわれる「通路」です。約1キロに及ぶこの回廊は、ヴェッキオ宮殿からウフィツィ美術館の中を通り、ヴェッキオ橋の上部を通って、メディチ家の本拠(私邸)であったピッティ宮殿につながっているのです。
《ウフィツィ美術館内部から見たヴェッキオ橋。その上部に「ヴァザーリ回廊」。下を流れるのがアルノ川》
このヴァザーリ回廊の中には、じつに数多くの自画像など絵画が並んでいます。
なお、ヴァザーリは、この回廊の設計者にして、ウフィツィ美術館のもとになった「ウフィツィ」(イタリア語で「オフィス」の意味)の設計者で、建築家・画家でもあり、・さらに『ルネサンス画人伝』などの著作も残しました。この著作は、ルナサンス時代の画家や建築家などについての重要な資料にもなっています。
ウフィッツィ美術館1階の回廊に、フィレンツェが生んだ27人の偉人の像が建てられています。その中に、コジモ・デ・メディチ=コジモ・イル・ヴェッキオ像=「祖国の父(PATER PATRIAE)」像、ロレンツォ・デ・メディチ=ロレンツォ・イル・マニフィコ(豪華王)像など、メディチ家の人物像が並んでいます。

藤尾 遼

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