この連載の(その1)で、《フローラ》と《ウルビーノのヴィーナス》にふれましたが、それらはいずれもウフィツィ美術館所蔵のティツィアーノ作品です。ウフィツィ美術館には、そのほかにも、ティツィアーノ作品があります。
ティツィアーノ《フランチェスコ・マリア・デッラ・ローヴェレの肖像》
ウルビーノ公の肖像画です。つぎの作品は、この公爵夫人です。
ティツィアーノ《エレオノーラ・ゴンザーガ・デッラ・ローヴェレの肖像》
ヴィットリア・デッラ・ローヴェレ
「ヴェネツィア派」のティツィアーノの作品が、フィレンツェのパラティーナ美術館やウフィツィ美術館に、所蔵されている主な理由は、ヴィットリア・デッラ・ローヴェレという女性の存在に関係しています。
時代は、ここに掲げたティツィアーノ作品が描かれた100年ほど後のことですが、第5代トスカーナ大公となったのが、メディチ家のフェルディナンド2世(1610-70年。大公在位1621-70年)でした。かれは、ウルビーノ公爵領の相続人ヴィットリア・デッラ・ローヴェレと婚約、ウルビーノ領を併合しようとしました。(ウルビーノは、マルケ州に位置し、フィレンツェのあるトスカーナ州の東方)しかし、ときの教皇ウルバヌス8世の軍が1632年にウルビーノに兵を送り、メディチ家によるウルビーノ併合は実現しませんでした。これはメディチ家の落日を象徴するもので、以後、その衰退は坂道を転げ落ちるような具合でした。
ほぼ同じ時期の1632年、ガリレオ・ガリレイ(1546-1642年)は、地動説的な宇宙論を展開した『天文対話』を発表しました。フェルディナンド2世は科学好きでガリレオの「弟子」になっていたのです。それより前、1610年に、ガリレオは木星の周囲に4つの衛星があることを発見、そのひとつを「メディチ星」と命名していました。
そういう業績があったのに、ウルバヌス8世はガリレオを宗教裁判にかけ、その「誤り」を認めさせるという愚挙をなしたのです。
それはともかく、ヴィットリア・デッラ・ローヴェレは、ウルビーノ領の家具調度類を継承し、それをフィレンツェにもたらしたのでしたが、そのなかには絵画もあったのです。ウフィツィ美術館にあるティツィアーノの横たわるヴィーナス、パラティーナ美術館の《マグダラのマリア》は、その代表例です。また、そのコレクションに、つぎのような初期ルネサンスの作品も含まれています。
ピエロ・デッラ・フランチェスカ《フェデリコ・ダ・モンテフェルトロ夫妻像》
さらにまた、100年ほどのち、「最後のメディチ」の時代が来ます。それは最後のメディチ家の大公ジャン・ガストーネの死のときでしたが、かれの姉で70歳になっていたアンナ・マリア・ルドヴィーカは、彼女のものとなっていた多くの別荘、宮殿、ウフィツィ、ピッティに残る無数の絵画、彫刻、ブロンズ、宝石、工芸品などのすべてを、トスカーナ公国に寄贈したのです。その条件として、「何物も、このフィレンツェから持ち出してはならない」ということを付け加えました。(このあたり、若桑みどり『フィレンツェ』講談社学術文庫、参照)
そのため、ウフィツィ美術館やピッティ宮殿内のパラティーナ美術館には、かつての収集品が残ったし、別荘の多くは、「トスカーナ地方のメディチ家の別荘と庭園群」として、「世界遺産」に登録されているのです。

藤尾 遼

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