ダナエ
この連載の(その2)で、ティツィアーノの《ダナエ》にふれました。
ダナエは、「黄金の雨」に変身したゼウスの誘惑によって身ごもりました。ダナエの像を、いろいろな画家が描いています。まずはレンブラント(1606-69)。ティツィアーノの《ダナエ》からほぼ百年後の作品です。
レンブラント《ダナエ》
Rembrandt, Public domain, via Wikimedia Commons
エルミタージュ美術館、1636-43年、185cm×202.5cm
今は亡き加藤周一(1919-2008)が『絵のなかの女たち』(『加藤周一著作集』第19巻、平凡社、所収)で、ティツィアーノとレンブラントの《ダナエ》にふれていました。
ティツィアーノの《ダナエ》を、加藤は(ルーブル蔵)として以下のように論じていますが、写真を眺める都合上、ここではルーブル蔵ではなく、プラド美術館蔵《ダナエ》を掲げます。これと見比べても、加藤の論の流れがよくわかります。
ティツィアーノ《ダナエ》
Titian, Public domain, via Wikimedia Commons
プラド美術館 1560-65 129.8cm×181.2cm
《ダナエ》の比較
加藤によれば、ティツィアーノ作品では、「裸で寝台に横たわるダナエは、召使いが皿を捧げて、降り注ぐ黄金の雨を受けようとしているのを、一種の期待をもって、眺めている。雨を避けようとする姿勢はそこにはない。」それに対し、「レンブラントのダナエ(エルミタージュ蔵)も、裸で寝台に横たわるが、不意打ちにおどろき、半ば上半身を起し、右手を部屋の入口の方へ伸して、何ものかの突然の侵入を押しとどめようとするかのように見える。」(同じ《ダナエ》でも、ルーブル美術館蔵とプラド美術館蔵とでは、召使いが持つ物もダナエの視線もいささか異なるようですが、それはともかくとしましょう。)
いずれも、ゼウスとダナエの「出会い」について、「その女の側からの最初の反応を描く。その光景が一六世紀のイタリアでは、均整のとれた裸体の静かな美しさとなってあらわれ、一七世紀のオランダでは、はるかに現実的で心理的な反応の劇的な表現となった。」というのです。
さらに、時代がくだり、二〇世紀初頭のヴィーンでは、クリムト(1862-1918年)が《ダナエ》を描きました。(近くは、2019年4月から7月、東京都美術館で「クリムト展」がありました。そのときは、《ダナエ》の来日はなかったと思います。)
レダと白鳥
古代ギリシャ神話の主神ゼウスは、ダナエと交わりましたが、白鳥となってレダとも交わりました。「レダと白鳥」というモチーフも、いろいろな画家たちによって描かれましたが、ウフィツィ美術館所蔵作品に、ティントレットの作品があります。
ティントレット《レダと白鳥》
Jacopo Tintoretto, Public domain, via Wikimedia Commons
1570年 ウフィツィ美術館 167cm×221cm
ティントレット(1518-94年)は、ティツィアーノ(1488/90-1576年)の工房に短期間ですが、いたことがあります。
ルネサンス期の「レダと白鳥」を描いた作品としては、コレッジョ《レダと白鳥》もあります。(絵画館(ベルリン)1532年頃)
この「レダと白鳥」というモチーフに関して興味深いのは、レオナルド・ダ・ヴィンチもミケランジェロも、描いていたという点です。ただ、両者の作品は現存せず、いずれも模写が残るだけです。
チェ−ザレ・ダ・セストによる模写《レダと白鳥》(現存しないレオナルド・ダ・ヴィンチ作品)
Cesare da Sesto, Public domain, via Wikimedia Commons
ウィルトン・ハウス(米国)所蔵
おそらくロッソ・フィオレンティーノによる模写《レダと白鳥》(現存しないミケランジェロ作品)
National Gallery, CC BY-SA 4.0
ナショナル・ギャラリー所蔵
このレダの姿勢は、フィレンツェのメディチ家礼拝堂内部にあるミケランジェロ作《ジュリアーノ・デ・メディチの墓碑》前面の《夜》という彫刻(大理石。1526-34年)の姿に通い合うところがあります。
受け身の女性の「理想化」
《ダナエ》についての加藤の論には、ティツィアーノ、100年後のレンブラント、20世紀初頭のクリムトと、時代的変遷を意識した視点がありました。
しかし、それだけではありません。ダナエにせよレダにせよ、あるいはこの連載でいえば、(その1)で書いたヴィーナスにせよ、男性中心の視点を感じないわけにはいきません。
加藤周一も、上でふれた『絵のなかの女たち』(初出は1982-83年)において、「近代の西洋では、受け身の女性が強調され、理想化されてきた。」と書き、こういう傾向への反発としてフェミニズム運動が出てきたことを指摘していました。
いろいろな観点から絵画をながめることも、絵画をみる楽しさ、あるいは意味につながることでしょう。

藤尾 遼

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