ティントレット《受胎告知》
つい最近、若桑みどり(1935-2007年)さんの『絵画を読む イコノロジー入門』(ちくま学芸文庫、2022年)が出版されました。この本は、もともとは1993年に出た本で、そのさらに原型は、NHKの「人間大学」という番組にありました。「絵画を読む」というタイトルで放映されたものだそうです。30年ほど前の著作ですが、文庫本化されたのを機会に読んでみましたところ、前回の(その7)で書きましたティントレット(1518-94年)の《受胎告知》のことが出ていました。前回述べましたところとはだいぶ異なる視点から書かれていますので、ここで紹介しておきます。
ティントレットの時代
ティントレットがヴェネツィアで生まれた前年の1517年は、ドイツでマルティン・ルター(1483-1546年)が、ローマ・カトリック教会を激しく批判する運動を始めた年でした。いわゆる「宗教改革」の始まりです。そして1540年代に入ると、ジャン・カルヴァン(1509-64年)がスイスのジュネーヴを舞台に「神権政治」を開始しました。こうして、「プロテスタント」の運動がヨーロッパに広がっていきます。それに対し、カトリックの側は、「対抗宗教改革」に乗り出しました。
このあたりのことは、高校の「世界史」で学習されたところでしょう。こういう動向を念頭に置くことが、ティントレットの《受胎告知》(制作は1583-87年)の鑑賞にも必要だということを、若桑さんの本から教えられました。と同時に、この連載の(その1)に引用した『新約聖書』ルカ伝におけるガブリエルとマリアの会話も念頭に置いてみてください。
若桑さんは次のように書いています。
絵画とその時代背景
「一六世紀半ばになって、ルターの宗教改革等によって聖母の神性が否定され、ヨーロッパの一部からマリア像は姿を消すことになる。いっぽう、反ルター派の宗教運動(対抗宗教改革)を起こしたカトリック側の図像もその論争によって大きな変化をこうむった。マリアの聖性をいっそう強調する必要が起こってきたために、このお告げが神の意志によって遂行されたものであることが強調的に明示されるように、天の父、鳩、光などの超自然的要素が大規模に復活し、天使は圧倒的な上位を占めて、天上からマリアのもとに降下(落下)するようになる。」(135−136ページ)というのです。
話の都合上、その絵を再掲しましょう。
ティントレット《受胎告知》
スクオーラ・グランデ・ディ・サン・ロッコ(ヴェネツィア) 1583-87年 油彩・カンヴァス 422cm×545cm
《受胎告知》の分析
ティントレット《受胎告知》について、もう少し若桑さんの説明を借りましょう。
ティントレットの「この作品では、マリアの住む家は地震のように破壊され、その隙間から、大勢の天使をともなって大天使ガブリエルが、マリアのもとに飛び降りてくる。その右腕は非常にたくましく、力強く、指先で光り輝く精霊の鳩を指し示している。糸紡ぎ車と糸巻きをかたわらに置き、膝の上には祈祷書を開いたままの聖母は、驚愕してのけぞっている。この命令は圧倒的なものであって、ためらいもはじらいもそこには介入していない。」(136-137ページ)
この説明を、絵を参照しながら読んでみると、絵の隅々まで細かく念入りに観察されていることがわかります。前回の加藤周一さんによる絵の説明でも、観察の詳細なことが際立っていました。お二人のそういう観察を参照しつつ、『新約聖書』ルカ伝の「受胎告知」場面を思い出してみますと、ルカ伝には、マリアの戸惑い、省察、マリアによる問いが描かれていました。しかし、ティントレットの描くマリアには、戸惑いとか省察というより驚愕があり、問いを立てる余地もなさそうなほどです。
若桑さんはこの点に関連して、「天の絶対的命令を示す天使の大群は、マリアの神聖な役割を否定しようとするプロテスタントへの示威を含んでいる」と書いています。
このように、プロテスタントとカトリックの激しい争いという時代背景を念頭に置けば、ティントレット《受胎告知》がなぜこのように描かれたのかの説明になるでしょう。一つの解釈としてよくわかりますし、非常に興味深いものです。
レオナルド作品との比較
この連載の(その5)では、レオナルドの《受胎告知》を取り上げましたが、二つの《受胎告知》作品を比べてみましょう。レオナルド作品では、マリアに「告知」をするガブリエルは、単身でマリアのもとに来ています。そして、ガブリエルは、真剣な眼差しでマリアに「告知」しようとしています。その真剣さが、画面に緊迫感を与えていると思います。
マリアの表情・しぐさも、マリアとガブリエルの位置関係も、二つの作品では異なります。レオナルドの絵では、ガブリエルの顔の方がマリアの顔の位置よりも低く描かれていて、マリアに敬意を払っているようにも見えます。これに対し、ティントレットの絵では、ガブリエルがマリアを見下ろす位置に描かれています。
レオナルド・ダ・ヴィンチ《受胎告知》
ティントレット作品では、マリアの頭部に丸く「光」が描かれています。でも、レオナルド作品では、マリアの頭部に「輪」は見えますが「光」は見えないようです。また、ティントレット作品では「鳩」が非常に目を惹くように描かれていますが、レオナルド作品では鳩はいません。
宗教と直接の関係はありませんが、レオナルド作品では「遠近法」による描写が際立っています。
このような作品の差異を、時代状況との関連で説明するところに若桑さんの本の特色があります。
若桑さんの『フィレンツェ』
ティントレットの絵からは離れ、マリア像について言えば、ティントレットが生まれ活動したヴェネツィアでは、マリア像をよく見かけますし、イタリア各地でもマリア像を見ることができます。プロテスタント系のマリアの神性否定にもかかわらず、カトリックの世界ではマリア崇拝は生き延びてきたといえるでしょう。
それから、若桑さんといえば、『フィレンツェ』(講談社学術文庫)という本があります。フィレンツェ案内としてもぜひ参照したい・携えていきたい本です。非常に密度の濃い本ですから、手早く通読するというわけにはいきませんが、とりあえずフィレンツェ旅行で回るところの関連ページを読むということでも有意義だと思います。
レオナルドの《受胎告知》は、フィレンツェのウフィツィ美術館にある作品ですから、若桑さんの『フィレンツェ』でも当然ですが言及されています。(406ページ)
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藤尾 遼

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